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現代小説/歴史小説

『生命の木』

斉藤ロベール著



 緑川巧人(みどりかわ たくと)は仕事を終えた電車での帰途にあって、すでに帰ってから飲むべき酒の種類と、今晩見るべきインターネットのサイトとについて、頭の中で物色していた。今日は少し早い帰宅だったから、読経をすぐして風呂に入ればゆっくり飲めるだろうと思った。緑川は毎朝神に祈り、毎晩読経する習慣だった。先祖や家族や同僚の社員、また知人の幸福を祈らなければ、何か相手に対し自分が悪く思われるとともに、そうしないことは不安でもあった。
 緑川は嘘をつかぬよう努め、人の悪意に善意を返すことを日々の心得としていた。カバンには必ず何かの宗教書を入れていた。三十過ぎでまだ独身だった。郊外のアパートを借りて住んでいた。
 電車内の吊り広告がふと目に留まった。雑誌の広告で、見出しの一つに、「小学生女児、全裸で保護」とあった。疲れていた緑川は感情を痛く刺激された。そしてそんな場面に出くわしたいものだと思った。雑誌の名前を確かめて、あとからコンビニで見てみようと思った。
 座っている緑川の前に、塾帰りらしい女子高校生の一団が乗ってきて立った。初夏のことで、薄着に短いスカート、脚や二の腕の肌がまぶしかった。いろいろなにおいが鼻をかすめた。美しいが、重いと緑川は思った。
 いくつかの駅が過ぎて、車内は空いてきた。停車中、今日も昨日と同じワインにしようと緑川は決めた。降りるまであと三駅であった。
 電車がまさに出ようとするとき、女の子供が駆け込んできて緑川の隣に座った。汗を随分かいて、息が切れていた。長く走ってきたらしい。外国人だった。どこの出身かわからない混血の顔をしていた。小学校の五年生くらいだろう。緑川には、この思いがけない出来事が天の恩寵と感じられた。そしてワインのことをすぐに忘れた。子供はスカートのポケットからハンカチを取り出して、額や首、わきなどの汗を拭き始めた。息はまだ切れていた。前かがみになって頭を垂れたので、緑川はその背中から子供を観察することができた。シャツの背中に浮き出た背骨が亀の甲羅を思わせた。子供の体の軽やかさは、緑川の気持ちをも明るくさせ、仕事の疲れをも忘れさせた。 
 その子は、緑川の降りるひとつ前の駅で降りた。やはり走って出て行った。その時子供はハンカチを落としていったが、声をかける間もなかった。緑川は拾ってハンカチを自分の背広のポケットに入れた。それは湿って重いほどだった。
 帰宅した緑川はすぐそのハンカチを出して嗅いでみた。濃い汗とわきがのにおいに脳天を射られる思いがした。ワインも読経もあとにして、緑川は高ぶる自分をまず慰めた。

 翌日、緑川はそのハンカチを持って出社した。においが消えないように手をかけてラップに包んでおいた。営業の外回りのあいだ、トイレでそれを嗅ぐと元気が出た。しかし、所詮は「もの」に過ぎない。大切には思いつつも、自分の心のみすぼらしさと、男のつまらなさとを感じた。それは常々緑川につきまとっていた感覚だった。ブラジャーをしている男の会社員が世の中にいるそうだが、そういう人間を責めることはできないと緑川は思った。
 昼間の都会は異常である。子供は学校に吸収されて、大人しかいない。老人や中年ばかりの昼の街を歩いていると、人類の滅亡する日が近いような幻想にさえとらわれた。
 外回りに行けば、小学校がひとつはある。緑川はなるべく近くに行って足を留め、運がよければ体育や下校時の女子を眺めるのだった。インターネットで拾った女の子の画像が緑川の家には山ほどあった。それは、いくら集めても足りないが、集めないわけにいかない心の隙を埋めるおがくずだった。
 退社した緑川は、今日もどこへも寄らず家で飲むことにした。あすは金曜だから、外で生ビールを飲もうと考えた。上司を誘ってもいいし、一人で行くのもいい。普段からひとりが好きな緑川だったが、酔えば感覚が変わるのだった。女子社員とは飲んでもつまらないと思った。それでも、外で飲んだあとに緑川は、大抵風俗店に寄らないことがなかった。
 奇妙に思われない程度に緑川は電車内でも例のハンカチを出しては鼻に当てた。きのうより強くなったにおいを嗅ぐと他のことを忘れた。嗅ぎながら、きのうの小学生の顔や体つきやを思い出そうとした。ドアから女の子が入ってきて、出て行くところまでを回想した。しかし、追憶の始まりであるまさに降りる三つ前の駅になると、果たしてきのうの小学生が乗ってきた。そしてまた緑川の真横に座った。先方はもちろん緑川を全く気に留めていなかった。ハンカチを返そうかと緑川は一瞬思ったけれど、不自然である気がしてやめておいた。その子は天井を見つめたり床の一点を見たりして何か考えているようだった。もう降りるという頃になって、その子は緑川のほうの腕を上げてわきの下を掻いた。何気なく目をやると、その子の薄いわき毛が目に入った。そしてそのときその子と目が合った。緑川ははっと目を背けたが、その子はまだわきの下を見ていて、電車が停まると歩いて降りていった。

 緑川のアパートの隣の部屋には、熱心なカトリック信者である家族が住んでいた。藤原という姓の実業家で、細君はポーランド人だった。ズザンナという娘がひとりいた。
 緑川と藤原とは、四年前の春先、同じときに越してきたこともあり、比較的懇意にしていた。当時小学四年生だった娘のズザンナは人なつこく、ときどき緑川のところへ顔を出した。好意いっぱいの美しいズザンナに緑川はたちまち惚れてしまったが、本当に純心で、緑川が落ち込んでいる日には、きっと神様が何とかしてくれると、緑川の手を握り自分の胸に当てるズザンナに、緑川も劣情を抱くことができないばかりか、こういうズザンナを騎士のように守りたいとさえ思ったほどだった。
 ズザンナはと言えば、緑川の部屋に感じる「野性」のスリルを喜んだものだった。六月頃、緑川のところに遊びに来たズザンナが大声で騒いだことがあった。小さなベランダに通ずるガラス戸の横にアシナガバチが巣を作っていたのである。巣は十センチはあり、蜂が大勢その上にいた。緑川は普段と変わらず、当たり前のように
「お隣さんだよ」
と言った。そしてその巣の横に行って洗濯物を取り込んだ。蜂は緑川に全く反応しなかった。
 ズザンナがよく見ると、部屋のあちこちに蜘蛛の巣があったし、床には蟻も歩いていた。そしてそれらがいることに緑川が何も困っていないのを見てとった。
 しかしズザンナは子供らしい愛情から「お隣さん」にうっかり手を出し、二三ヵ所刺されて泣いた。緑川はそのとき、ズザンナを慰めながらも、ズザンナちゃんは大きいんだから、手を出したら怖いじゃないか、でもこれでこの蜂の巣は人間に壊されるだろう、と言った。
 ズザンナは家でこのことを一切言わず、蜂の巣はそのまま保たれた。ズザンナの沈黙は、蜂よりも、緑川の悲しみを感じ取ったからだったけれど、その後毎年やってくる蜂に、ズザンナはいつしか緑川同様の親しみを覚えるようになっていった。
 ズザンナは今、中学一年生である。この緑川の「王女」は、親切で礼儀正しく、夏でも肌を見せることがほとんどなかった。遊びに来ることは少なくなったが、日曜日にはズザンナの方から教会へ誘いに来た。だがこの数年のあいだに酒をずいぶん飲むようになった緑川は、宿酔の自分が恥ずかしく、一度も一緒に行ったことがないのだった。
 
 女を抱いたあとの都会はやさしく見えると緑川はいつも思う。金曜の晩の街は遅くまで賑わっていた。上司と同僚としたたか飲み、別れたあとで安い風俗店に行った緑川は、更に一人でまた飲んだ。今日の相手は一人が十九、もう一人が二十三だと言っていた。おおよそ、そんな体だった。思い出しながら、緑川は二人の女性に感謝してその幸福を祈った。
 店から出ると大雨だった。街が暗く思われた。終電が近いので緑川は急いだ。傘を持っていたがささなかった。幸い席は空いていて、座るとすぐ緑川は眠ってしまった。以前、カバンを盗られたことがあった緑川は、カバンを抱きしめて眠った。
 目を開けたとき、緑川はしまったと思った。車内は人がほとんどおらず、外も暗かった。乗り過ごしたのである。その緑川の横に、全身雨で濡れた例の少女が眠っていた。少女は緑川の肩に頭をもたせかけていびきをかいていた。子供のいる時間ではない。
 力が抜けて脚の開いた少女のスカートは、まくれて下着が見えていた。車両の乗客は二三人、みな離れて眠っていた。それを見た緑川は、少女の下着に大胆に手を入れた。
 この子供が女であることを、緑川は、つい数時間前に若い女にした通りに確かめた。少女は眉間にしわを寄せたが、起きなかった。 
 電車は終点に行き着いた。緑川は少女を起こそうとしたけれども、少女は起きなかった。肩に手をかけて、外に連れ、仕方ないので緑川はタクシーを使って少女を自宅に運んでいった。警察へ連れて行くという考えは、不思議にも思い浮かびさえしなかった。
 少女は体じゅう熱を帯びていた。濡れた服を替えてやるあいだに、緑川は泥酔した頭で積年の思いを遂げ、そのまま眠ってしまった。

 緑川が目を覚ましたのは朝の六時頃だった。まだ早いと思ってまた目を閉じた。外は晴れか曇りらしく、雨音はしていない。きのう抱いた二人の女との会話を思い出し、触れた左手の指を、まどろんだまま緑川は口に当ててみた。それが新鮮に強くにおったとき、緑川は少女のことを初めて思い出した。頭痛と酔いの残っているはっきりしない意識で、緑川は少女のいないことと、その衣服が布団の横に置いてあることとを知った。少女を裸にした、その先が思い出せなかった。最後には布団に入れて眠ったはずだった。
 緑川は体を起こした。卓袱台に紙切れがあり、それに、ありがとうございました、服を借りていきますと書いてあった。名前も住所もなかった。そうしてみると、少女は帰ったのだ。緑川は念のため、投げてあった財布を調べてみたが、金はなくなっていなかった。尤も、盗られていても構わないと思うのだった。押し入れのティーシャツと短パンとが一つなくなっていたから、それを着ていったのに違いない。布団の横の少女の服は、靴下からスカート、下着、全てあった。髪飾りまであった。
 携帯電話が転がっていた。出した記憶は何もなかった。緑川は中を確認して驚いた。実に百枚以上、昨晩の緑川の奇行と痴態とが記録されていたのである。少女の体のありとあらゆる部分、例えばつむじや爪の一つ一つまでが執拗に写され、後半が動画になっていた。
 緑川は自分を悪魔だと思った。激しい恐怖が襲い、犯罪者に成り下がった自分におののいた。冷蔵庫に走ってビールを開けると一気に飲んだ。一体、自分はどうなるのか。緑川は少女の服をまとめてごみ袋に入れた。そのとき落ちた下着を見た。緑がかったような薄茶色に汚れていて、焦げ茶色の染みもあった。緑川はそれを手に取り、鼻に当て、それから丸めてごみ袋に投げ込んだ。ごみ袋は押し入れに放り、戸を閉めた。
 ビールを数缶飲んだ緑川は、苦しい眠りに落ちていった。

 呼び鈴が鳴った。目を覚ました緑川は、回覧板ですとの内容に応じる気はまるでなかったが、それが声でズザンナだと分かると、吸い寄せられるように出ていった。
 戸が開いて緑川を見たズザンナははっとした。下着姿の緑川のトランクスの前が高く盛り上がっていた。ズザンナは首まで真っ赤になった。しかし、緑川の様子がおかしいことに気づいたズザンナは、気持ちをそこに向けるまいと心に決めた。
「おじさん、大丈夫?」
「大丈夫、大丈夫。酔いがひどくって。」
ズザンナは、緑川の部屋のいつもと違う臭気が気になった。そして、どこかで嗅いだにおいだとは思ったが、思い当たっていよいよ恥ずかしくなった。男の人もこんなにおいがするのだろうか。しかし、きっとごみか何かが偶然そうなっているのだろうとズザンナは判断した。
 緑川は泥酔甚だしい様子だった。立っているのもやっとであるらしい。
「おじさん、あたしがお掃除してあげる。」
とズザンナは自分から上がり、緑川を支えた。大人の男の体の大きさをズザンナは肌で感じて、また赤くなった。緑川は、ズザンナに触れた喜びより安心が先に立って、意識が遠のいた。横になった緑川はすぐに寝息を立て始めた。
 掃除機をかけ、ごみをまとめたズザンナが緑川を見ると、布団は跳ね上げられ、腹を出していた。暑いのかしらと思って行ってみた。しゃがんでズザンナが布団を直そうとしたとき、緑川が片脚を立て、ゆるいトランクスの付け根の口から、もはや力の抜けた男のものがこぼれ出た。見て、しまわなければと慌てたズザンナは、咄嗟に両手を出してそれを包んだまま、手が離せなくなった。そうしてむしろ全部包み込んだ。男子が呼んでいる通りのものを手のひらに感じ、指先に当たってくる重みと危なげなやわらかさとに驚いた。しばらくそのままでいたズザンナの心はなぜかしかし落ち着いてきた。そして自分が正しいことをしているように思われてきた。ズザンナは包んでいた両手を開き、そこへ恐れずに目を向けた。ズザンナは男の人を分かった気がした。それは見かけと違う弱いものだと思った。ズザンナは、両手に掬うように、そこへ心のこもった口づけをした。力の戻った緑川が、ズザンナには母親のように愛おしかった。
 その晩、ベッドの中のズザンナは、自分が女であることを初めて体で意識し、知った。

 日曜日、緑川は普通に目を覚ました。特になにも恐れていたことは起こらない。少し落ち着きを取り戻した緑川は、今から真面目に生きればいいと考えつつあった。その考えのまま、顔を洗ったあと少女の下着を嗅いだ。 
 九時半にはズザンナが教会に誘いに来るはずだった。それが、今日に限って来なかった。両親の出かけるらしい音と声とが聞こえたので、緑川は出て尋ねてみた。両親は、年頃ですからねと笑った。
Chu shi eble havas iun problemon?(もしかして何かあったんですか。)
緑川が母親にエスペラントで質問した。母のアンナは、エスペラントに堪能で、緑川も話せたから、日本語よりエスペラントが得意なアンナは、緑川とは好んでこの言葉を使っていた。引っ越してきたばかりの頃、ズザンナは、知らない言葉がいきなり母の口から流れ出たのに大層おどろいたものだ。
Ne, ne, tute ne! Shi estas nun simple en tia malfacila jaragho. Morgaw shi forgesos chion.(いいえ、全然。あの子は今ああいう難しい年頃なだけです。明日には全部わすれてしまいますよ。)
アンナはそう答え、両親は出かけていった。
 しかし緑川は、教会に行かないズザンナが大変気になった。自分の都合を教会に優先させるような子ではない。あの「王女」にはわけがあるに違いないと思われた。三十男の緑川は、十代始めのズザンナをそれほど敬愛していたのである。生徒が尊敬する先生の家を初めて訪ねる時のように緑川は呼び鈴をかしこまって押した。
 目を泣きはらしたズザンナがすぐに戸を開けて、入って下さいと言った。緑川は非常に緊張して上がった。
 緑川をテーブルに着かせたズザンナは、お茶を入れて緑川に出し、自分もテーブルに着いた。緑川の瞳をまっすぐに見つめるズザンナの目から、雨の雫のように形のはっきりと丸い涙の粒が止まらなかった。それからズザンナは顔を伏せて泣いた。
 緑川は人に感情を向けられることが大変苦手だった。営業職にあるのは人あたりが良いからで、自分としては物を相手にしたいくらいに思っていた。緑川が大人の女性とまともに付き合えない原因も、一つはここにあった。「感情の生き物」とは、人間でも女でもなく、本来動物である。知恵のついた人間の女が見せるむき出しの感情を、動物のそれと異なり、緑川は恐れ嫌った。
 ズザンナは、美しい顔を涙と洟とで濡らしながら、きのう自分がしたことを、吐露という言葉のとおりに語った。寝る前のことまでつぶさに語った。そしてもう教会へ行く資格がないと言った。
 聞きながら緑川は、強い興奮に内心おそわれた。様子を思い浮かべると甘い喜びすら感じてきた。そして、好奇心からその時のズザンナの気持ちをいちいち尋ねて、言葉を味わいたくなった。
 だがズザンナの信頼が緑川を留めていた。こんな立派な人格が、自分を信じて恥を打ち明け、助けを求めてくれている。緑川は自分の「程度」をわきまえているつもりだった。困っている先生を力のない生徒が助けようとすれば、自分を顧みず最善を尽くすよりあるまい。うちに帰れば少女のものもあるのである。ごみのような自分はそこに埋もれていればいいのだ。今は自分の時間ではない。
 緑川は親鸞の悪人正機の話をズザンナにした。悪いのは自分で、ズザンナは何も悪くないこと、むしろ思ってもらって嬉しかったこと、悪いと思っているときこそ祈るのが本当だということを緑川は併せて語った。
 ズザンナはうつむいて耳を傾けていたが、やがて、落ち着いた喜びをたたえた瞳で緑川を見つめ、おじさんありがとうと言い、緑川の手を取った。
 ロザリオを持って教会へ行ったズザンナを見送ったあと、緑川は部屋に帰って一心に読経した。

 緑川の勤めているのは市内にある小さな出版社である。出版社の書店に対する営業は、どちらかといえば、書店と出版社とのあいだに立つ「取り次ぎ」が握っているとも言えた。出版社の意向より、書店からの「売れ筋」を取り次ぎ会社が統計的に集めて、それをまた書店に知らせることで、書店から出版社への注文が決まってくる。しかし、これに頼りすぎるとどこの書店にも同じ本が並ぶことになり、書店の独自性はなくなっていく。だから、「外回り」の人間の生の声を聞くのを喜ぶ書店もあったし、出張で遠くへ出向いた時など、重宝がってくれるところもあるのだった。けれども、殆どはすでに退職している前任者がおかしなことをしたか何かで、関係を損ねていた場合には、名刺さえ受け取ってくれない書店もあった。そういうところに緑川はまたよく当たった。
 外回りが臨時注文と顔つなぎとを主としていれば、営業職のその時々の責任も水商売的で、注文が取れなければ上司に苦い顔をされるものの、多く取っても大して褒められるわけでもなかったから、知人の薬剤関係の営業に比べ、楽なものではあった。それでも緑川は、人間関係がいかに大切なものか身にしみていた。具体的に、相手との関係が数字に反映される。互いに個人としての本心でなく、利害を絡めた約束付きの、表面的な付き合いなのに、何かあれば本気で謝り、また感謝もする。自分とは何者なのか、また何のために日を送っているのか、それを思うと緑川は虚しくなるのだったが、誠実さを欠くつもりはなかった。そしてその誠実さで、断られても幾日かあとには相手に名刺を受け取らせ、高い注文を得たものだった。
 勝ち抜く戦国武将などにではなく、義の奴隷として働いた殉教者たちに緑川は自分を近づけたく思った。しかし緑川は命を求め、仕事からそれを得ることはできなかった。会社の意向を自分の意志とするのも辛いことだった。そもそも、いつからか緑川にとって、生きていること自体がなにか重苦しいのだった。いのち、それは青空であり、自由に躍動する明るい元気さであるはずだった。
 人生の重みが表れた大人の体をした女より、軽々とした少女の心身に緑川が憧れたのは当然だったろう。そしてズザンナは緑川の矛盾する理想をまるごと体現した少女だった。
 ただ、日々の緑川の具体的な慰めとなったのは、例の少女が残した「においのする物」だった。嗅覚や味覚・触覚は、視覚や聴覚より直接人間の感覚に働きかける。実際、くだんの携帯電話の画像など、緑川はごくたまに見返す程度で、すぐに飽きた。しかし、少女のハンカチや下着・靴下は手放せないで、持ち歩いた。これまで生きてきた世の中に、これ以上緑川の心を慰めるものはまるでなかった。
 知らない少女の体臭に頼り、知っているズザンナから充分な愛情を得られぬことに緑川は悩んだけれども、風俗に通い、読経をして、泥酔することのうちに、全てをないまぜにしてごまかした。だが、この数日に膨れ上がった自分の犯罪者意識は確実に緑川を蝕んでいた。

 一人で本を読みながら過ごした飲み屋ですでに泥酔していた緑川は、電車内に人がまばらなのを見て、背広の内ポケットからあたかもハンカチを取り出すように、少女の下着を取り出して嗅いだ。女の汚れはもう乾いた焼き菓子のように変わっていた。
 朦朧とする頭でそれを鼻に押し付けていたところへ、例の少女が乗ってきて、緑川を認め、となりに腰掛けた。日はまだ沈みきっていなかった。少女は手提げ袋を持っていた。緑川は、気づかれたと思ったが、少女がにこやかに緑川を見つめていることから、ハンカチとごまかせることを確信し、それをポケットに戻した。
 降りるはずの駅で少女は降りず、緑川の下車する駅まで付き添い、一緒に降りて歩いた。何を話したかは忘れてしまったが、少女の深い緑の瞳が心を打った。少女の顔色はよくなく、ときどき腹を押さえていた。
 駅から緑川のアパートまでは二十分くらいであった。その途中、少女が激しい腹痛を訴えた。トイレに行きたいと言い、額に脂汗が浮かんでいた。緑川は少女とともに夢のような意識の中で走った。そしてアパートのドアを開けた。
 入るとすぐ、急に立ち尽くした少女のいやという声がして、少女は手で顔を覆った。緑川は台所のタオルを手に取った。
 トイレで少女の腹痛が収まるまで、緑川は間近に世話し、風呂場で少女を洗ってやったようだが、意識がはっきりした時に外はもう明るくなっていた。緑川は背中から少女を抱く形で横向きに寝ていた。
 宿酔の緑川は、布団をはねあげて立ち、少女を見た。枕の向こうに少女の吐いた跡があった。緑川の無理な大人の行為のせいだろう。緑川は少女を足で仰向けに転がした。大の字になった少女の平たい下腹を踏んでみると、眉にしわを寄せた少女はああと声を上げた。温かなものが緑川の足にかかった。
 この時、緑川の自我は涼風のような自由を感じ、生きている喜びに溢れかえった。
 次に目が覚めたとき、少女のその生きている印の中に横たわった緑川は、動かぬ体を一点の意識で動かし、欠勤の電話を入れた。その時に少女のいないのを認識することすらできなかった。

 「お母さんが来るから帰ります。おふとんごめんなさい。今度、何かします。また洋服を借りていきます。レナータ」
昼ごろようやく起きた緑川がこんな置き手紙を見つけた。卓袱台の上にビールの缶が四つと、ワインのびんが一本転がって、そこにそれはあった。グラスが二つあり、ともに使った跡が残っていた。
 まるで記憶にないことだった。少女も酒を飲んでいたことになる。
 少女が持ってきた手提げ袋があった。中には、この前着ていった緑川の服が入っていた。
 緑川は布団の汚れたシーツを外し、捨てようかと思って丸めはしたものの、惜しい気がしてそうできず、いつもの所へ放っておいた。少女の髪もたくさん抜けて落ちていた。残っている酔いからくる気分の悪さも手伝って、少女のにおいに食傷気味になっていたが、その髪を一本一本丁寧に拾い集めた。
 したことの記憶がないとは一体どういう心の働きだろうか。それよりも、酒を飲んでいるとき、自分の行為をまともだと思っているのに、覚めてみると明らかに狂っているのはなぜなのだろうか。
 ふと会社のことが気になった。しかし、確かに連絡したのを思い出して、緑川はシャワーを浴びに行った。自分の下着を脱いだとき、そこに少女の跡を見つけた。男にはない色だった。それを眺めつつ、少女は緑川のしたことに気づいているのだろうかと疑った。置き手紙にも、なんの非難の言葉もない。「今度」と先のことまで書いてある。少女の腰はまだ狭く、女の重さを備えていない。少女にふさわしい行為であるはずがなかった。
 体を拭いた緑川は、そのまま部屋を掃除し、少女のものは全てごみ袋にまとめ、口を縛った。それから、少しフランス語の本を読んだのだが、結局ワインの栓を開け、休みを文字通り休むことにした。

 翌日、もはや何ともなく健康な朝を迎えた緑川は、「あすは必ず行くけれども大事をとって」もう一日会社を休んだ。
 少女は今晩の電車に乗ってくるだろうか。そもそも、少女はどこへ行っていてあの時間に乗ってくるのか。緑川はしらふで少女と話したことがなかったから、実際には何をしていても思い出しか残っていないのだった。確かにあるのは少女の汚れた服やいろいろな残り香だ。いつも持ち歩いている少女の下着も、全てほとんどにおわなくなってしまった。緑川は思い立ち、少女の下着を穿いてみた。不快に締め付けられて吐き気を催しそうになった。
 天気がいいので表を少し歩こうと思った緑川がドアを開けて出たとたん、ズザンナが目に入った。ズザンナは自分の部屋のドアの両側にある植木鉢に水をやっていた。薄黄色の半袖のシャツに真っ白な長いスカートをはき、はだしのサンダル姿をしたズザンナは爽やかながら、その顔に疲れがあった。挨拶のあと、今日は創立記念日でお休みなのと自分で言い、どうぞとドアを開けてにっこりと緑川を招いた。この「どうぞ」が唐突だったので緑川は面食らった。しかし、散歩の方を優先させる理由など、もちろん無いに決まっていた。
 ズザンナの部屋は赤やオレンジの小物が多く、明るい女の子らしい部屋だと緑川は思った。ポスターの類がない代わりに、十字架が壁にかかっていた。机の上にも聖家族の絵があった。暗く陰気な感じのする自分の部屋とはなんて違うのだろうと緑川は感嘆した。そして女の「善さ」を予感しもした。
 ズザンナの両親は共働きなので、今日はズザンナだけであった。食事はどうするのかと緑川は聞いてみた。一緒に作って食べませんかとズザンナが答えた。人と食事をするのも好きでない緑川は、この言葉がとても暖かく胸にしみるのを不思議だと思った。用意してくれた紅茶を飲みながら、緑川はズザンナが話すままに、よく耳を傾けた。友達の悪口など一言もなかった。疲れて見えるのはなぜかと聞くと、たくさん出た宿題を昨晩全部してしまったのであまり寝ていないのだと言った。それでも朝は起きてお祈りをしたのだと言う。
 まだ九時過ぎだった。二人はトランプをしたり、クイズなどをしていたが、緑川の方は不安になって、長くいてもいいのかと尋ねた。ズザンナは、緑川に用がないならずっといても構わないと答えた。この分け隔てのないズザンナの態度が緑川には恐れ多かった。もったいないとか、かたじけないとかいう昔の言葉が分かった気がした。やはり早く帰ろうと緑川は思った。しかし、食事を一緒に作るのに承諾してしまったことが胸にかかり、昼までは帰るべきではあるまいとも考えた。

 特に話すこともなくなった二人はそれぞれに本を読み始めた。本棚のポーランド語やエスペラントの本が珍しくて緑川は飽きなかった。ズザンナは推理小説らしい子供の本をベッドに寝転がって読んでいたが、次に緑川が見たときには寝息を立てていた。寝不足の子を起こすわけにもいかない。この章を読んだら帰ろうと緑川は決めた。
 立ち上がるとき、下腹部の痛みを緑川は強く感じた。まだ例の少女の下着を穿いたままだったのである。これを思い出すと同時に、ある不安が緑川の胸によぎった。鍵のかかっていないアパートに、眠った子供を一人残していいのだろうか。ドアに手をかけたところで、それが論理的な説得力を伴って緑川に確かなものとなった。緑川は、あまり満足でない感覚を抱きつつも、ズザンナの部屋へ戻った。そして緑川は息を飲んだ。
 何度か寝返りを打ったズザンナの長いスカートが腰の上までまくれていた。ズザンナは快活な少女なのに違いない。緑川に背を向け、右腕は頭の方に伸ばしていた。両脚は折り曲げていた。
 緑川は近寄ってみた。そして、ズザンナの白いはずの下着に、ちょうどそのシャツの色よりは暗いいびつな黄色を見つけた。きのうから服を替えていないのだと緑川は思った。いまの緑川にとって、目の前にあるのはただの綺麗な少女の体だった。緑川はその黄色に発作的に鼻を当てて深く息を吸い込んだ。かき分けるように鼻を沈めた。まだ小さな女の形が口元に細かく辿られた。鼻を後ろにゆっくり動かしていくとにおいも変わっていった。
 膝で立っている緑川は、顔を離してズザンナの体を上から眺めた。頭に伸ばした腕の付け根に、半袖のシャツから金色っぽい毛が見えた。そこにも緑川は鼻を付けた。あの少女と同じきついにおいが緑川の脳天を突いた。くすぐったかったのか、ズザンナは緑川の頭を両腕で抱きしめ、体を上に向けた。その腕をやわらかくほどくとき、緑川はズザンナの幼い胸に頬で甘えてみた。
 本当に尊敬している人間に、動物的な性質を、もっと言うなら糞尿などを重ねて見たくはないものだ。子供が女親の股から生まれてくるなどということも、母のイメージにおよそそぐわぬ嫌なものだ。緑川はもう一度ズザンナの同じところを初めから嗅いでみた。そして、思い出のようになっているその高貴さと尊敬の念とがそれに全く影響を受けないことに喜びを覚えた。改めて緑川はズザンナの存在を見上げた。今なら手が届くそこへの思いを積極的に諦めて、緑川はスカートを戻してやり、わざと大きなくしゃみを自分でした。
 ズザンナは飛び起きた。緑川の顔を見て、ごめんなさい、寝ちゃったと言った。
 昼、二人はスパゲティーを作って食べた。料理はあまりしたことがないとズザンナは言った。ソースはインスタントだった。そのあと緑川は朝しようと思っていた散歩をするためズザンナのもとを出ていった。
 この晩、緑川は酒を飲まず、床に入るとズザンナにあたたかく抱かれた気分でよく眠った。

 退社後、緑川は遠回りして古本屋に立ち寄った。真面目に勉強がしたい気分だった。何軒か回ってドストエフスキーの昇曙夢による古い訳本を見つけた緑川は、高額なのにもかかわらず喜んで手に入れた。電車に乗るまでの待ち時間に読み、訳者の思い入れも訳文に反映するものだと思いながら、気がついたことがもう一つあった。本の中の人物にズザンナを探していたことである。昨日のことがあってから特に、緑川の心の中でズザンナが大きな位置を占めているのに今、気がついた。それは恋の感覚だった。体のことがあると男は具体的な関係を求めるらしい。尊敬を伴った恋愛の感情を描くドストエフスキーに親しみを覚えたのは当然だったかもしれない。ノヴァーリスがゾフィーに寄せた愛のことも思い出し、自分もそういうことができるだろうかと考えた。乗車して、続けて読み進んだ。
 ふと上を見ると、「小学生女児また全裸で保護 同一犯か」という記事が目にとまった。緑川は嫌な気がした。
 ズザンナに手紙で思いを告げても大丈夫だろうと緑川は思った。しかし、両親は理解しないに違いない。
 突然、ぽんと膝を叩かれて緑川が本から顔を上げると、隣に少女が座っていた。緑川は初めて、はっきりした頭で少女の顔を知った。少女は一瞬とまどったような色を瞳に浮かべた。しらふの緑川を少女も知らなかったからだろう。
 少女は緑川に付いてきた。緑川はここで初めて少女にその素性を尋ねた。進学塾に行っていること、母親は夜の仕事で朝にならないと帰らないこと、父親はいないこと、などを少女は語った。緑川のところに来ていることは母親は知らないし、言っても仕方がないとも言った。それから、学校にも友人は特にいない、死にたい人の気持ちがよくわかると加えた。来ている時に緑川が何をしたのか覚えているかとは、聞く勇気が出なかった。
 アパートに着いた緑川はまず風呂を沸かし、夕飯を少女の分も作ってやった。少女を先に風呂に入れ、自分はあとから入った。出てみると、少女がワインを出して待っており、緑川が飲むままについでくれた。途中、少女も確かに飲んだ。インターネットを二人で見ながら面白く話し、二本目の瓶を取り出してあけた。もちろん少女はついでくれた。緑川は、夫婦とはこういうものではないかと思った。

 早朝、目を覚ましてみると少女は既にいなかった。いつ寝たのかさえ覚えていなかったが、あまり気にしないことにして、緑川はシャワーを浴びに風呂場へ行った。
 脱衣かごの中に少女のきのうの下着があった。キャミソールとかいう上に着る襦袢のようなものもあり、どちらも湿っていた。緑川はそれらをまずビニール袋に入れてからシャワーを浴びた。
 シャワーを出てふとカレンダーに目をやると、土曜日に色鉛筆で丸がしてあって、「この日に来ます!」と書いてあった。しあさってである。 
 駅に向かう出勤途中、猫が車に轢かれていた。ひどい轢かれ方だった。人通りがあったが、緑川は構わずその死体を抱き上げて、少し離れた草むらに横たえた。それ以上のことができないのを歯がゆく思いもしたけれど、片やこれで充分だと感じ、片や自分に葬る資格がない気もした。緑川は、猫と猫の帰るべき家の家族とのことを思って短く経を唱えた。
 朝の混んだ電車に運良く座れた緑川は、鞄からドストエフスキーの読み掛けを取り出し、読み始めた。なん駅か過ぎたところで男に声をかけられた。職場の上司であった。緑川は、しまったと思った。この上司は良い人だったが、会社へ行くまでの「自由な」時間に職場の人に会うことで、緊張が入るのが緑川には苦しかった。この時、少女の下着を穿いてくればよかったと思い、例の、ブラジャーを着けて出勤するサラリーマンの気持ちを完全に理解したと感じた。ドストエフスキーではだめで、肌に密着して確かめられる自由の所在が必要なのだ。
 下車してまだ時間のある早さだったから、緑川はコーヒーを飲んでいくことにした。上司は、俺もそうするかと言って緑川に付いてきた。緑川はもはや自由を諦めて、上司に誠意で向き合おうと心に決めた。するとここからドストエフスキーが別な自由のように緑川の助けになった。

 金曜日、緑川は同僚たちと街で飲んで帰宅した。この三日間、少女には会わなかったのである。少女の下着を手放すことはなかったが、多分に犯罪に関わるような少女との付き合いから離れ、ズザンナに気持ちを告げることに集中できるすがしさを緑川は感じた。同僚との飲み会で下品な会話をすることは控えていたから、緑川は少女との関係を口に出さずに済んでいた。
 少女と過ごす夜はいつもほとんど記憶がない。そこで狂ったことが進んでいるのは事実である。しかし、もし酒を飲まなかったとして、緑川があの少女に今より良いことでもしてやれたのか。何もできず、関係さえ生まれなかったに違いない。そして少女の境遇はそのままだ。出会わない方が良かったとは、他人事の発言である。緑川は、すっきりと納得のいかぬ複雑な気分だった。少女の親がこれを知ったら自分は犯罪者として捕まるだろう。ただしその時には親を告訴して、少女を幾分か救うこともできるかもしれない。それも少女の方から翻って、緑川を訴えに出たなら何にもならない。そしてそういうことは、世間を見ても充分ありうることだった。
 ワインを開けた緑川は、これまでに少女が残していった物を並べてみた。普通、女の子にとっては汚物であるそれらの品々が、光彩を放って緑川の男の欠損に改めて刺激を与えた。これを手放せる自信が緑川にはなかった。ズザンナに同じものを求めるずぼらさもまた、自分にないだろうし、あってはならないと思った。だからこの「汚物」は自分の一部にとって宝であり、少女はその金の卵を産む鶏ですらあると緑川は捉えざるを得なかった。
 本当はこんなものより、少女本人を求めて良いはずであったが、その時の記憶のない緑川であってみれば、どうにも致し方がないことだった。
 ズザンナに渡す手紙はもう出来ていた。酔った緑川は、夜中にそれをとなりのポストに入れてしまった。それからインターネットのサイトを閲覧した。緑川は座ったまま、それらのサイトの夢を見ていた。

 ズザンナに宛てた手紙と休日という意識があったからだろう。呼び鈴が鳴ったとき緑川は、日曜礼拝へのズザンナの誘いだと思って、慌てて起きて戸を開けた。立っていたのは少女だった。約束の土曜日だった。
 一瞬混乱した緑川が起き抜けなのを見て取って、少女はにこっとほほえんだ。そして自分から部屋に上がってきた。少女の手提げにはワインが二本入っていた。
 緑川の部屋には、きのうのまま少女の汚れた服が並んでいた。少女はそれを見ても全く驚かなかった。それどころか、その場で着ているものをどんどん脱ぎだした。オレンジ色のカチューシャはつけたまま、裸の少女は立っている緑川に近づき、緑川に抱きついた。少女の茶色の髪が油でつややかだった。少女は横になった。そして、おじさんの言ったとおり、あれからお風呂に入らなかったよと言った。やはり記憶にはない言葉だった。
 少女は膝を立てて緑川を導いた。嗅いでと言ったが、緑川は少女を抱え、膝に抱いた。立ちのぼる強いにおいに温かく包まれた緑川は、少女の僅かに開いた唇に顔を近づけた。その唇がそれたと思ったら、少女が左耳に噛み付いた。あっと叫んで緑川は身を引いた。少女は、真面目なおじさんは怖いから嫌だと耳元で言い、立ち上がるとワインを一本開けて、瓶を口につけ飲んだ。緑川のところへ戻った少女は、また飲んだかと思われたが、今度は口を緑川の口に当てて、中のものを流し込んだ。何度かそれを繰り返すうち、少女は自分に酔いが回ってきた。
 突然少女は緑川を突き飛ばした。倒れた緑川に少女は背を向けて、嗅いでと言った恥ずかしさを乱暴に変えて果たした。そして冷たい手が緑川のズボンに入った途端、緑川は激しい痛みを感じた。何のためらいもなく力一杯握っているらしい。
 緑川は思い切り少女に息を吹きこんだ。息はすぐ中で閊えたが、もっと力を入れると、奥が開いて入っていった。初めての感覚に少女は声を上げた。力を緩めた少女を引き剥がした緑川は、背中から誇らかに少女の中へ踏み込んだ。今度は詰まったような声を出して、少女は緑川にされるままにしていた。緑川はその姿勢でワインを瓶から片手で飲んだ。
 酔ってきた緑川はこの行為に慣れを感じた。いつものことだと思い出す感じがあった。当たり前のように緑川は少女の中でし終えると、少女を仰向けに返してまた続けた。少女は片腕を上げて目のあたりを隠していた。
 ふと涼風が吹いてきた。少女の体臭と違う爽やかな空気に緑川がそちらを向いたとき、玄関口に立って見ているズザンナの姿が目に入った。ドアを閉めていなかったのである。手には、昨日ポストに入れた緑川の手紙があった。
 緑川は少女を置いてズザンナの方へ走り寄った。何も穿いていないことなど忘れていた。ズザンナは眉をひそめた笑顔のような表情をしたまま、外に出てバタンとドアを閉めた。

 しばらく立ち尽くしていた緑川はドアの鍵を締め、少女を振り返った。どんな感情にも増してこのとき緑川の心に、先ほどこの玄関口から吹いてきたような涼風が吹き渡った。それは自由の薫風だった。今、緑川は、何をしてもいいのだと感じていた。
 おじさんどうしたのと少女レナータが声をかけた。なんでもない、いま行くと緑川は台所で水一杯を飲み、レナータのもとに走った。
 緑川はレナータの全身を丁寧に嗅ぎ、隈なく口付けしていった。伸びやかな優しい気持ちでなんでもできた。平静な心と言える様子でレナータのはらわたの味を知った。何か女の秘密にまた一つ立ち入った喜びがあった。緑川は、自分の舌が伸びてレナータの口から出てくる空想をしてみた。それから緑川はそこに入った。止めることなく長く続けた。離れることを嫌うレナータのために、緑川は用もレナータの中で済ませた。
 何も食べずに疲れて眠ってしまった二人が起きたのは夕方の五時頃だった。緑川はレナータを洗ってやって、朝食のような食事を摂った。だるそうなレナータとは反対に、緑川の酔いは覚めていた。レナータが自分の子供のようにいとおしかった。おじさんといると自分がなくなっていくみたいで嬉しい、泊まっていきたいとレナータは言ったけれども、緑川は許さなかった。
 緑川は一緒にレナータの降りる駅まで電車で見送ってやった。来週また来る約束と、緑川から与えられた本一冊とともに、レナータは帰っていった。
 緑川はそのまま電車で街まで行き、賑やかな土曜の夜を心ゆくまで楽しんだ。冷え切った自由な心は、街の彩りをあざやかに見せ、風俗の娘たちとも軽やかに話して飽きさせなかった。
 この夜、緑川はいくら飲んでも泥酔することなく、むしろ冴えた頭で終電に乗り、絶望とは清々しいものだと思いながら家に帰った。

 宿酔は宿酔であった。翌朝、緑川はいつもの気分悪さで朝を迎えた。そしてきのうのこともきのうのことであった。思い出となったきのうは今日の緑川にとっては単なる悪夢だった。「犯罪」の現場をズザンナに見られたのだ。それとも、この心変わりは、諦めたはずの期待や欲が戻っただけなのだろうか。自由などもうまるで感じなかった。このまま落ちていくほかないと緑川は思った。きのうはレナータを「救う」手立てすら考えた。それが今はレナータに救いを求めている。しかもその救いは、レナータを思いのままにしたい、レナータについてきてもらいたいという自己閉鎖的な欲望らしかった。緑川は自殺のことを考えた。それは退職と同じくらいの重さだと思われた。するかしないかだけの話であった。
 呼び鈴が鳴り、緑川は機械的な調子で立つとドアを開けた。白いワンピースのズザンナが、緑川の手紙を持って立っていた。緑川は自分の目を疑った。
 上がっていいですかとズザンナは聞いた。緑川は声が出ず、ただ頷いた。二人は卓袱台に向かいあって座った。しかしズザンナは緑川に近づいて、斜めに話す形になった。緑川は自分の震えているのに気がついたが、一切言い訳はしないことに決めた。そして今にもワインを開けたい気持ちに抗って、王女の判決を待った。ズザンナの青い真面目な瞳に緑川は吸い込まれた。
「あたしがまだこんな子供なのに、おじさんはあたしが好きなの?」
緑川は寧ろきのうのことを断罪して欲しかった。ズザンナはなぜ責めてくれないのかと思った。しかし、責められたら生を断念することに緑川は決めていた。
 毒念の発作に駆られそうになりながら、緑川はズザンナに、自分の異常な性向、レナータとのこと、寝ているズザンナにしたことを語り尽くした。海のような色のズザンナの瞳に吸い出されるように、またそこへ投げ捨てるように緑川はまくし立てた。ズザンナは一言も返さず聞いていた。
 話すことのなくなった緑川はズザンナの反応を待った。心はからになっていた。その緑川にズザンナは、
「おじさん、どこにも行かないでそばにいてね。」
と涙を流し、緑川の手を握った。そして昔のようにその手を、今は少し娘らしくやわらかな胸へ、祈るように押し当てた。
 その日曜日、緑川はズザンナと一緒に初めて教会へ行った。

 その後の一週間、緑川はレナータに会うことも何故かなく、ズザンナとはそもそも日曜日にしか会わなかったから、酒以外に意識の逃げ場もなかった。自分は何をしているのかと度々思った。
 レナータとの悪徳は断ちきれない。取り返しもつかない。してしまったことが、合意の上とは言え大きすぎた。それでもレナータを何とかしてやりたい。ズザンナとは、互いの過ぎ去った密かないたずらを除けば何もまだ始まっていないけれども、世間から見ればこれも悪徳行為だ。緑川を受け入れたズザンナは、レナータとのことに女らしい嫉妬を抱かないのだろうか。惨めな男に高いところから憐れみを垂れただけだったのか。いや、自分こそ、不誠実にもぬけぬけとレナータとの関係を続けるつもりでいる。
 人間が苦手な緑川は、人からの感情に極度に今敏感になっていた。少女たちとの関係が当事者の外に漏れるのをひどく恐れた。自分のこれまでの誠意なども、全て嘘なのではなかったかと感じた。ついで、自分の人生に肯定すべき点などないと思った。
 しかし、仕事の外回り先で何かあったときには、どうしても誠意を尽くさざるを得ない自分の「小心さ」が緑川は頼もしくさえあった。頑固な者を動かすのは案外小心者なのであり、見かけと違って、その頑固者が小心者を頼っている場合も緑川はしばしば経験した。ただ、そういう付き合いはいずれ苦しいことでもあった。
 思えば、自分が傷つけられても相手には良いことを返すという態度のどこまでが小心さで、どこからが善意なのか、考えてもはっきりしない。相手を心から許しているわけでもなく、かつそれが傷つけられたくない故の態度であろうことを感じてもいたから、純粋な善行とは言えないはずだ。それでも、全く間違ったことをしているとも緑川には思えないのだった。恐らく、それがなんにせよ一種の犠牲行為だからだろう。犠牲には苦しみと断念とが伴うものだ。確かに、緑川は酒の席でも商売相手や会社の悪口を言わず、つまり陰でも仕返しをしなかった。
 しかし、少女たちの件に関しては、ただ苦しいばかりで、犠牲どころか貪る自分の姿しか見えてこなかった。ズザンナに対しても、思いの距離が近くなったことが却って緑川の依頼心を増し、会えないことが恨めしく、ズザンナに怒りを覚える日も生じてきた。自分を受け入れたズザンナは、とうに自分を受け入れてきたレナータに今や劣ってしまったのではないか。あとは所詮、レナータにしていることをズザンナにも求めるだけなのではないか。緑川は足場を失った思いに苦しみ続けた。

 土曜日、待ちかねていたレナータが来ると緑川は喜んで迎えた。そして助けを求めんばかりに固く抱きしめた。いつものように手提げを持ったレナータは、おじさん、どうしたのと緑川の腕の中で言った。君とこうして会っているのが怖いと緑川は正直に言った。あたし、おじさんしか優しくしてくれる人いないから、おじさんに嫌われたら生きていたくない、おじさんは悪いことしてないよとレナータは返し、緑川の口にキスをした。
「人に迷惑がかかるかもしれない。」
「そんなの知らない。」
レナータは手提げからワインを取り出した。
 卓袱台のもとでワインを開ける準備についた緑川の前にレナータは裸で立った。まだはっきりした頭でその白い体を緑川はつくづく眺め、美しいと思った。レナータは緑川の視線を意識しながら、それを味わっていた。いろいろな姿勢をとってみせた。それからまた緑川の口にキスをしたが、ふと後ろを向くと前かがみになり、両方の手で緑川に広げてみせた。見えるかとレナータは脚のあいだから顔を覗かせて尋ね、寄せて近づけた。子供らしいみずみずしさと女の子らしい不潔さとが調和していた。
 その姿勢のためか、力を緩めたせいか、大きく開いたそこが光の具合で奥までよく見えた。こんな子供のものを目にするのは初めてだったし、めったに見られぬそこの様子だったから、緑川は、閉じてしまわないよう気をつけつつ、鼻と口とを近づけた。
 ズザンナを嗅いだ時は、ズザンナの高貴さがそれに汚されることがないと思った。レナータの場合、これこそがレナータなのであって、しかも汚さを感じさせず、緑川にいのちの恵みであると思わせた。
 眺めているうちに、緑川にはある積極的な意志が湧いてきた。この子の保護者になってもよい、身柄を引き取っても構わないと思った。せめて母親に会って意見するか、いよいよだめなら訴訟に持ち込んでやろうと考えた。しかし、どれも自分の行為をあらわにすることだと悟った緑川は、やるせなくなって、ワインをその場で開けて飲んだ。
 レナータは緑川が何か言うまでそのままの姿勢でいるつもりだったらしく、ワインを飲む音を何度も聞きながら、動かず静かにしていた。早くも狂った緑川は、独特な興味に駆られ、レナータの息に合わせて開くつぼんだ口へ、大人の力でいきなり指を思い切り突き入れた。レナータは頭を跳ね上げ気を失った。指はそのままに、緑川は飲み続けた。そしてそのレナータを抱き起こすと、膝に乗せて抱きしめた。ぐったりと力の抜けたレナータは、まさに「お人形さん」のように愛らしかった。
 
 緑川の胸の上でレナータは目を覚ました。いつ眠ったのかしらと思い出そうとしてもできなかった。たまらなくトイレに行きたくなって起き上がろうとしたとき、緑川の指に気づいても、レナータはそれを平気で外し、立っていった。
 用を足してきたレナータは、寝ている緑川を見ながら、緑川の飲み残したグラスを空け、新しく注いで飲んだ。この人は本当に自分のことが必要なんだと思い、できれば家を出て一緒に暮らしたいと切なく願った。緑川を虐待者と捉えるなら、レナータのこんな気持ちに心理学では何か名前がついていることだろう。
 レナータの母は日本人だった。けれどもほとんど家にいないばかりか、酔っての朝帰りにはレナータが起きるほど悪態をついて床につき、レナータをよく殴った。お前なんか欲しくなかったと言われたこともあった。それでレナータは、本当の母親はよそにいるのではないかと夢見るようになっていた。理想の家族を空想して眠るのが習慣になった。緑川に対して粗相ばかりしてきたと思っているレナータに緑川は一度も怒ったことがない。それは実際には緑川に責のあることなのだったが、とにかくレナータにとって新鮮だった。
 先日、緑川がくれた本はヤーコブレフの文庫だった。本など自分から読んだことがレナータはなかった。読んでみると、時の経つのも日々のことも忘れる体験だった。それ以来、レナータは図書室へ通うことを覚えた。この人といればまたいいことがあると信じてレナータは疑わなかった。
 よく晴れていた空が曇り、暗くなってきた。そのうちに雨音が聞こえ始めた。レナータは緑川の胸に酔った体を横たえた。
 交代に目を覚ました緑川はうつろな頭でトイレに行ったあと、習慣的にレナータの中に入り込んだ。一週間の悩みをそこに捨ててしまってから、緑川も再び眠りに落ちていった。

 夕方だった。呼び鈴が鳴り、ズザンナですという声が聞こえた。緑川はすぐ起き上がりドアを開けた。
 入ったズザンナははっと息を飲んで後ろを向き、中に立ったままドアを閉めた。おじさん、なにか穿いてくださいと小声で言われて、緑川はまたやったかと気がついた。奥には裸のレナータが寝ている。緑川はジャージを穿くと水をごくごくと飲んだ。そして、どうにでもなれと腹を決め、ズザンナを中に入れた。
「これが僕の今の暮らしだよ。」
と緑川は裸のレナータを抱き寄せて卓袱台のもとに座った。ズザンナも座った。ズザンナは半袖に、やはりいつものふわりとした長いスカートを穿いていた。どちらも色は白だった。珍しく水色のベルトをしていた。緑川の部屋を見回したズザンナは、また掃除に来ようと思った。
 緑川に抱かれ、汗をかいて眠っている少女から、いつかの部屋のにおいをズザンナは思い出した。自分ととしも体つきもそんなに違わないこと、外国人の親がいることにズザンナは親しみを覚えた。しかし、緑川がその子の裸を撫でていることが恥ずかしく、何となく視線をそらしてしまうのだった。
「おじさんはこの子のためにお祈りする?」
とズザンナに聞かれ、緑川は愕然とする思いだった。近頃は読経もまれだった上に、こんなに会っていながら、レナータとその母親のためには祈る気持ちすら欠けていた。あまつさえ、訴訟しようとはどういう了見であろう。緑川は自分を恥じた。ところで何の用だったのかと尋ねる緑川にズザンナは、ただ会いたかったのと答えた。
 話し声を聞いてレナータが目を覚ました。ズザンナを見るといぶかしそうな顔をし、緑川にくっついた。体を隠そうとはしなかった。だが、緑川に言われ、レナータは緑川の大きなティーシャツを被って着た。
 レナータは、緑川のこの少女に対する態度が、子供に接するのと少し違うことを感じた。この人誰と聞くと、おとなりさんだと答えられた。
「ズザンナです。中一です。お友達になりましょう。」
とズザンナが握手を求めた。レナータは
「レナータです。五年生。」
とその手を握った。
「おじさん、みんなでまずお祈りしましょう。」
とズザンナが言った。そしてズザンナはカトリックの祈りを、緑川は十句観音経を唱えた。レナータは黙ってそのあいだ手を合わせていた。祈りのあとは厄が落ちたように気分が明るかった。
 そのあと三人で夕食を摂ったが、食事はズザンナが頼んで母親に持ってきてもらった。三人はトランプをし、すごろくをし、またたくさん歌った。九時頃、緑川とズザンナに降車駅まで送られてレナータは帰っていった。
 帰り道、緑川は先日の手紙のことを取り消そうとズザンナに持ちかけた。しかしズザンナは、心配せずに今は何も決めないでおきましょうと言い、きっと神様がいいようにしてくださいますと笑顔で加えた。

 翌朝早く八時過ぎにレナータは現れた。緑川ははっきりした頭でレナータを迎えた。抱きしめるだけに留め、緑川は新しい本をレナータに与えた。緑川はなぜか心身ともに非常な疲れを感じていた。
 おじさん、駄目だよとレナータは言い、スカートのホックを外して緑川を抱きしめた。緑川は、いつでもこの子を抱けることを心に感じて楽になった。レナータは積極的にそれを証明してみせた。
 九時過ぎに呼び鈴が鳴った。ズザンナの声を聞いたレナータがドアを開けた。緑川は疲れた体で寝ていたが、二人は緑川を起こして、皆で礼拝に行った。
 礼拝が終わって帰ってくると、レナータはズザンナの家に呼ばれていった。事情を察しているズザンナは、緑川には、あとで行くから安心して眠ってくださいと伝えてあった。その言葉通り緑川は眠りこけた。
 ズザンナの家では、レナータをめぐっての話し合いが進められていた。真面目なカトリック信者の両親は、レナータの母の、親としての立場を尊重しつつも、とりあえずは児童相談所に行くことを提案した。レナータに異存は何もなかった。更に、裁判に持ち込むことも辞さないつもりでレナータの側に立とうと言った。実業家の藤原には、緑川にはまるでない胆力があった。考えるだけで実行の伴わない緑川と違い、その言葉は豊かな経験と自信とに裏打ちされた威厳に満ちていた。ただお母さんのためによく祈ってあげなさいとズザンナの両親はレナータに伝え、藤原は家族でまずそれを行ってみせた。
 レナータは、ここに自分はいてもいいのだと肌で感じた。しかし、緑川を放っておけなく思われ、おじさんが心配だから行ってみますと隣の部屋へ戻っていった。
 ズザンナの両親は、緑川さんは動物や子供に好かれてちょっと聖フランチェスコに似ているのじゃないかと話して笑った。ズザンナも、うん、そっくりだと、仏教徒の緑川のことを受け合った。
 レナータは緑川の布団から出ると裸のまま横に座り、緑川が早く元気になることを祈った。ついで、いやいやながらも、ズザンナたちが言うとおり、自分の母親の幸福を声に出して祈ってみた。

 月曜日、きのう久しぶりに酒を飲まないで夜を過ごしたというのに、緑川の疲れは抜けていなかった。その日は出勤したのだったが、晩になっても疲れはひどく、しかも夜通し眠れなかった。そこで翌日会社を休んで医者に行ったところ、軽いうつ症状だと言われた。
 もらってきた安定剤を飲むと、神経質な気分はぼんやりと麻痺したように治まった。何かに取り掛かる気にも外出する気にもなれず、一日部屋に緑川はいた。夜は睡眠薬を飲んで寝た。
 疲れもだるさも変わらないばかりか、薬の副作用も翌日にはあった。それでも緑川は出勤し、帰りはどこにも寄らないで電車に乗った。そしてレナータに会った。レナータは緑川の隣に腰掛けた。ちょっと調子が悪いんだと緑川が言うと、レナータはあたしがいてあげるとすぐ答えて緑川の手を握った。しかし、緑川には、これまでのことが暗く思い返されて、この子のことは何とかなるのだろうか、そして今日もこれからも自分は罪を犯し続けるのかと考え、目をつぶった。レナータは緑川の頭を胸に抱いた。電車内ではおかしな行為のはずだったが、もうどうでもいいと緑川は思った。半袖の腋から漂うレナータのにおいに、緑川は少しだけ楽になった。
 家に着いたら緑川は真っ先に横になった。服はレナータが脱がせてくれた。大人とは違う女の子のにおいが空腹を誘った。瞑目していた緑川が豆電球の薄暗がりに目を開けると、ただレナータのそれだけが視界に入り、またすっと楽になるのを感じた。緑川は、夕食はいらないと思った。
 だいぶ経ったように思われた頃、呼び鈴が鳴り、ズザンナですと声がした。時計はまだ八時だった。緑川はレナータに服を着せて、出てもらった。
 ズザンナは、父の用事で来たのだけれど、やっぱり自分が来てよかったと言って上がった。電気を点けていいかと聞くズザンナに、そうしてもらうと、赤いジャージ姿のズザンナが緑川に明るく印象的だった。それまで知らないことだったが、ズザンナは陸上部なのだそうだ。布団から起き上がろうとする裸の緑川をズザンナは手で止め、自分がそばに座った。
 ズザンナは、あしたにでも父が話をしたいと言っていること、レナータの母親と、きのうおとといと長い電話のやり取りがあったことを緑川に告げた。緑川は話の前者に、レナータは後者に大きな不安を抱いた。
「何も心配しないでくださいね。」
そう言うと、ズザンナは緑川の額の辺りにそっと手を置いてから、電気を消して帰っていった。
 
 拍車をかけた調子の悪さに緑川は医者から診断書を出してもらい、しばらく会社を休むことにした。気の引けることではあった。自分の荷を他人に負わせることになると思うと一層辛くなった。
 緑川の調子が悪いというので、それならと、ズザンナの父親は自分たちに任せてくれるようズザンナを通じて伝えてきた。ズザンナは毎晩来てくれた。その話はあまりせず、洗濯やら掃除やらをして、祈りを上げて帰っていった。
 この間、隣の藤原家と、三井家、つまりレナータの家とに進んでいることがあった。藤原は、児童相談所を介して三井に連絡を取り、レナータをお宅には帰せないこと、話によっては法的な措置が行われることを、責めることなく三井に伝えた。三井はそれでも取り乱して、これ以上のことは自分にはできないし、法律的な騒ぎは抱えきれない、お宅がレナータの面倒を見てでもしてくれないなら放っておいてもらいたいと言った。そして次の電話では、ままならない自分の運命を長々と藤原に嘆いた。レナータは自分が高校卒業後カナダに留学していた時に出来てしまった子供で、父親はわからないという。つまらなかった高校時代を取り返したい外国での解放感から起きたことだった。親に相談もできず、留学先の学校も黙って中退し、学費を充ててカナダで出産した。もともと裕福でもなく厳格な家庭であった三井家の反応は冷たく、若かった三井は荒れた。その後に知り合った男は何人もいたが、子連れの三井は真剣には相手にされなく終わった。三井の運命はいよいよ暗転し、今のような暮らしになっていったのだという。聞いて藤原は、レナータを養子にすることも考えてみましょうと言った。それでいいのかと藤原が念を押したら、いいと三井は返した。
 藤原は喫茶店で三井と面会した。三井は、藤原が想像していた姿と全く異なる、華美でない美しいなりをした知的な顔つきの女性だった。しかし、長いあいだの生活からくる心の荒みが顔には表れていた。
 レナータの、藤原家との養子縁組は滞りなく手続きが運ばれた。藤原は更に、これで生活を立て直してください、これまでのご苦労を生かされてと、三井が驚く額の小切手を差し出した。一貫して温かな態度の変わらない威厳あるこの実業家に、どうしてここまでしてくれるのかと三井が訪ねたとき、藤原は三井に聖書を渡し、
「神様のお許しがなければ何事も起こりえないと私たちは考えているのです。だから今回のことも、これまでのことも、必ず良き働きの種に違いありません。ただ、気持ちを神様に向けていなければそうはなりません。あなたも祈ってください。」
と言った。
 もちろんこの二人は、事をここまで発展させた緑川とレナータとのこと、そしてズザンナの関わりを何も知らない。生身の親であるこの二人がそのことを知ったら態度は変わっていたかもしれない。しかし、藤原の言説自体はそれでもなお通用する道理であった。
 
 三ヶ月の休職をすることになった緑川は、もう仕事を辞めることを考えていた。外出も少なく、暑い中、何もできずに緑川は苦しんだ。
 世間では今週から学校が夏休みに入っていた。
 隣のことがどう進んでいるのか、ズザンナの話からだけではよく分かりかねたが、うまく行っているとのズザンナの話を緑川は信じた。レナータとはしばらく会っていなかった。
 ある日の午前中、呼び鈴が鳴った。聞いた声で、藤原麗那ですと子供がドア越しに呼んだ。緑川が開けてみるとそれはレナータだった。隣にズザンナも立っていた。
「おじさん、プールに行きましょう。泳ぐのなら大丈夫でしょ?」
とズザンナが言った。緑川は承知した。騒がしい大人の誘いなら断るところだったが、少女も水辺も恋しかった。
 外は街並みがあざやかだった。ときどき涼しい風が強く吹いた。蝉が賑やかに鳴き、入道雲が輝いていた。緑川は世界のいのちを感じた。ズザンナから、バスの中で緑川は事の成り行きを知らされた。
 緑川はズザンナの肌を初めて目にした。学校の水着でなく、赤いビキニだった。緑川が目を離せずに見つめているとズザンナは赤くなって、
「おじさん!」
と叫んだ。ビキニは母親が、プールに行くなら日に焼けてきなさいと買って与えたものだそうだ。レナータも青い同じような水着を着ていた。裸のレナータより何だか大人びて見えた。
 二人とも綺麗だなあと緑川は本心からつぶやいた。その言葉の泣きそうな響きが二人の少女に届き、二人は少し深刻そうに顔を見合わせた。それからいきなり緑川はプールに突き落とされた。青く冷たい水の中で、体とともに心の軽くなるのを感じた緑川のすぐあとから二人は飛び込んできた。そして二人とも緑川に抱きついてきてくすぐった。ズザンナも、水の中では子供っぽくなるらしかった。
 三時間ほども遊んで遊んで、三人は帰途に着いた。ズザンナもレナータも、バスの中では緑川に頭をもたせかけ眠っていた。女の子の濡れた髪が緑川に冷たく心地よかった。
 バスから降りても、疲れている二人の少女は子供らしくむっつり黙っていた。アパートの前で別れを告げるとき、ズザンナは、おじさん、あしたもまた行きましょうねと言った。顔は大変ねむそうだった。レナータは、お酒を飲みすぎないでねと言って、緑川の手提げに手を入れた。今日は体を動かしたから飲んでもいいんじゃないかと緑川は言い、またあしたと三人は別れた。
 水着を干そうとした緑川は、手提げにレナータの、今は正しくは麗那の下着を見つけた。心のありように注意しつつ、まず緑川は長い読経をした。それから緑川は風呂に入り、麗那のものを嗅ぎながら、ビールを心ゆくまで飲んだ。どうせあしたも休みである。緑川はしばらく自分で運命の船を漕ぐのをやめて、世界に任せることに決めた。
        ********************
 その後、緑川麗那は、はたちまでに七人の子を産んだ。みな女の子だった。勉強したいと言って留学したカナダで、麗那は恋に落ち、緑川から離れることになった。このことはレナータの母親を藤原の家にも思い出させたが、緑川と麗那との話は着いていたらしく、既に農家として成功していた緑川が子供を育てることにし、先方の男性とも相談し合っての結論ということだったため、ことは荒れずに収まった。麗那とその夫とは、毎年、冬と夏には緑川を訪れた。三井を伴ってくることさえ増えていった。
 このあいだに、大学を出たばかりのズザンナに緑川は結婚を申し込んでいた。この年までズザンナは、言わば緑川以外の男を知らなかった。ズザンナは緑川の昔の手紙をまだ持っていて、お返事遅くなったけどと言って承諾した。
 ズザンナは緑川とのあいだにたちまち五人の子を儲けた。一番下の二人だけが男の子だった。全く家庭の人となり、十二人の子を育てているズザンナを、妻であっても緑川はやはり尊敬し続けた。ズザンナの高貴な人柄を十二人の子供はそれぞれに受け継いでいった。
 人間が苦手な緑川の家は大家族になった。女の子のことも四六時中で、こだわる意味がなくなった。離れに自分の小屋を建てたら、蜂がいくつも巣を作った。ここには緑川とズザンナしか入れない。二人は「お隣さん」の羽音のする中で、毎日手を取り合って祈りを欠かすことがなかった。

小説のコメントコメント
この作品の著作権は、作者である 斉藤ロベール さんに帰属します。無断転載等を禁じます。

子供と大人の恋愛といえば、大抵扱われるのは成人男と少女です。そして、それは端から不道徳ときまっているため、それらを扱った作品は、戯画的なものを除いて必ずといてよいほど不幸に終わります。人生はそんなに単純なのでしょうか。たとえ不健康さが関係の元であっても、昇華につながる関係を書くことを試みました。
2014/04/20 08:27 斉藤ロベール



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