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現代小説/歴史小説

『許されない帰郷』

此道一歩著



 川中(かわなか)彩香(あやか)は一歳を前に母親に置き去りにされ、父親は彼女が二歳になった時、九州に単身赴任してしまった。 彼女はその時から祖母と二人で生きてきた。

 四年後の正月に、その父親、勇樹が一人の女性を伴って帰省してきた時、彩香はすでに六歳になっていた。
 父親は再婚を機に小学校に入学する娘を九州に連れて帰ろうと考えていたが、まだ幼い女の子は不安そうな顔をして祖母の姿を懸命に探した。
 諦めた父親は二人で九州に帰って行ったが、その後入籍し、二人の男の子を授かった。
 それ以降、彼がこの家に顔を見せることはなかった。

 しかし彩香が、大学を卒業後、総合商社山(やま)菱(びし)商事に入社して三年目が終わろうとしていた三月の半ば、そのたった一人の家族である祖母が家で突然倒れてしまった。

 夕食の準備を済ませ、仏壇のお供えを取り替えようと立ち上がった時、彼女は目がくらみふらっとすると急に胸が苦しくなり、その場に倒れてしまった。
午後三時過ぎのことであった。

 このまま逝ってしまうのかもしれない……
 薄れていく意識の中で、夫を亡くしてからの人生が走馬灯のように駆け巡った。
 そして彩香の笑顔が瞼に浮かんだ。 彩香のウエディングドレスを着た姿を思いながら、あの子は大丈夫…… 自分にそう言い聞かせ彼女は静かに息をひきとった。

 祖母が息をひきとった一時間後、この家にやってきた隣家、幼馴染、多田秀人の母親が玄関の鍵が開いているにもかかわらず返事がないことを不審に思い電話を掛けてみると、家の中で携帯が鳴り響いた。
 胸騒ぎを覚えた彼女は家へ上がり込み祖母が倒れているのを見つけ救急車を呼んだが、もうどうにもならなかった。


 式場の関係者やら町内会の人達との打ち合わせが終わって、ふと気が付くと8時を回っていた。家に残っていたのは彩香を除くと職場の上司である松尾と、隣家、幼馴染の秀人の母だけであった。

 その時、母親の突然の訃報に急いで九州から帰ってきた父親の勇樹は部屋に入ってくると、
「どうしてもっと早く……」彩香に向けた第一声は、急にそこで止まってしまった。

( この人が父親なのか…… )
 瞬時に悟った彩香の二十年に及ぶ思いを込めた一言が
「急だったのよっ!」
 切り裂くように放たれた。
 睨み付けながら吐き捨てるように返した彩香の言葉に松尾はただならぬ二人の関係を察した。

 母から、時折送られてくるメールには、成長した彩香の写真がいつも添付されていた。陽光を思わせるような眩(まぶ)しさを醸(かも)し出す彼女の写真はいつも彼の涙をさそった。
 せめて一目だけでも母に会いたかった後悔の中から顔を覗かせた思いと、笑顔で微笑む彩香の写真によって彼女をいつも身近に感じていた彼の一方的な錯覚が重なり合って、思わず、『どうしてもっと早く…… 』 という、彩香を責めるかのような言葉になってしまったのだが、それは決して彼の本意ではなかった。
 しかし、そんな背景など想像もつかない彩香には、二十年もの長い間、祖母と自分を放置していた、この無責任な男に浴びせられた言葉は、罵倒のようにも聞こえ、彼女の本能をむき出しにさせてしまい、祖母が育んだ彩香は姿を消してしまっていた。

(こんな時に、言い争いはだめ……)
 そう思った上司の松尾が割って入った。
「はじめまして、私、彩香さんの職場で課長補佐をいたしております松尾と申します」
 はっと我に返った勇樹が、
「大変失礼をいたしました。彩香の父親でございます。いつも娘がお世話になりましてありがとうございます。今日もまた、いろいろご迷惑をおかけしたことと思います」
 そう言って深く頭を下げると

「とんでもないです。でも彩香さんはいつもお祖母様のことを気遣っていらっしゃいましたよ。飲み会があっても、お祖母ちゃんが一人で待ってるから、そう言って…… 私はずっとそれを傍で見ていましたから、彩香さんがいかにお祖母様を大事にしていらっしゃったかよくわかります」と松尾が続けた。

 そこまで聞いた父親は俯いてしまった。
 それでも彩香は瞬きもしないで大きく見開いた目を吊り上げ、今までに見せたことのないような形相で彼を睨み付けていた。

「彩香さんごめんなさい、あなたに全て押し付けてしまって、本当にごめんなさい、私が悪いんです。私たちがもっと再々帰って来ていれば、何かが変わったかもしれない。ほんとにごめんなさい」
 勇樹の妻、杏子の後悔の思いであった。

「杏子……」勇樹が制止しようとしたが、

「この人が何度言っても帰ろうとしなかったので、私もあきらめてしまって…… でももっと強引にこの人を連れて帰ってくるべきでした。それが二十年も経ってしまって…… 何もできなくて、彩香さん本当にごめんなさい」
 涙を流しながら杏子は血のつながらない娘に詫び続けた。
 
 ふっと我を取り戻した彩香が彼女に向って
「いいえ大丈夫です。 私もお祖母ちゃんのために何かができたわけではありませんから、それにあなたが、何度かお祖母ちゃんを訪ねてくれたこと聞いています。だから全然大丈夫です」そう答えると、その横から

「彩香すまなかった…… そんなつもりはなかったんだ。 つい自分の後悔がお前に向いてしまった。本当に申し訳なかった」
娘に詫びながらも、彼は顔を上げることができなかった。

 この張り詰めた空気を何とかしたいと思った松尾が再び口を開いた。
「とんでもない失礼なことを言ってしまいました」
 深く頭を下げる彼女に、勇樹は
「こちらこそお恥ずかしいところをお見せしてしまいました。本当にありがとうございました」と礼を繰り返した。

 穏やかさを取り戻した彼に安心した彼女は
「それでは私はこれで失礼いたしますので……」そう言うと家を後にした。

 一方、家では、彩香に、勇樹家族の四人と秀人の母親が残っていた。
 秀人の母親は勝手知ったる他人の家で、みんなのためにコーヒーを用意していた。
 それを見た勇樹の妻は、慌てて彼女の傍らに行くと
「ありがとうございます。お義母さんから多田さんにどんなにお世話になっているかということは十分に聞かされていました。 お礼の言葉もありません。何度か、ここに来たことはあるのですが、運悪くなかなかお会いすることがかないませんで、本当にすいませんでした」

「とんでもないです。彩香さんはあんなに素晴らしい女性です。私なんか何もすることはありませんでした。今日は私もこれで失礼いたします」
 父親一家によって彩香の心を乱されるのではないか、そのことを心配した秀人の母は朝まで彩香に寄り添おうと考えていた。
 しかしこの勇樹の妻に触れて、この人は大丈夫…… そう思った彼女は安心して家に帰って行った。

 残った五人の沈黙を破るように、長男が口を開いた。
「あの、お姉さん、はじめまして長男の克樹です、 十七歳です。 四月から三年生になります」彩香を見つめて話し始めたこの少年を見て、彼女は、はっとした。

「ごめんなさい、バタバタしてしまって挨拶も出来なくて本当にごめんなさい。彩香です、よろしくお願いします」
 笑顔で応えてくれた姉を見て克樹はホッとした。

「これは弟の弘樹です。 十五才で四月から高校生です」
「よろしくお願いします」
 さすがに『この母にしてこの子あり』である、この母から人を想う心を教わっているのであろう、彩香はそう思って嬉しかった。

「二人ともイケメンねー、モテるでしょ」
 二人は笑顔で話しかけてくれる彩香がとても嬉しかった。異母姉が居る事は知っていたが、今日の今日までどんな人なのか全く知らされていなかった二人は、笑顔の姉を見て安堵した。

 しかしその夜、彩香が父親と言葉を交わす事はなかった
 翌日は通夜、葬儀は二日後となった。


 午前十時に祖母が式場へ搬送されるのに伴い、彩香達五人も式場へ向かった。式場ではすでに松尾が様々な采配をふるっていた。
 彼女にあいさつを済ませた彩香は、祖母につきそったまま二人の時を遡っていたのだが、突然立ち上がると人目のつかない所へ行き、携帯を取り出した。
 ただならぬ表情を目にした松尾は大きな柱の裏側にあるソファに腰をかけ彩香の電話に聞き入った。

『もしもし彩香です』
『…… 』
『おばあちゃんが亡くなったわっ!』
『…… 』
『昨夜です。お祖母ちゃんに謝って!』
『…… 』
『お祖母ちゃんに謝って、あなたが私を押し付けてしまったからお祖母ちゃんの老後は台無しになってしまった。あなたが頑張(がんば)ってちゃんと私を育てていたら、お祖母ちゃんはもっと楽しい老後を送ることができたのに、あなたのせいよ、だからちゃんとお祖母ちゃんに謝って!』
『…… 』
『私を押し付けられて大変だったはずなのに、それでもお祖母ちゃんはあなたをかばっていた。自分達がもっと気を付けてあげればよかったって……』

 実の母親を責めているのだろう、松尾はこんな厳しい口調の彩香を聞いたことがなかった。昨日の父親といい、この母親といい、彩香の複雑な生い立ちが手に取るようにわかった。
 祖母と二人で暮らしている彼女の環境にいくらかの疑問を持ってはいたが、ここまで大変な境遇にある娘だとは思いもよらなかった。その中で彼女をここまで育てあげたその祖母の偉大さに、子をもつ親として松尾はただただ頭が下がる思いであった。
(私がこれを聞いてしまったのは、お祖母様の思いかもしれない……)

 午後六時から通夜が始まると思いもよらず多くの人々が参列した。
 中でも丸菱商事からの参列者は百人を超え、加えて祖母の教え子も三十人程度が、参列し彼女の死を悼んだ。

 焼香が始まると、ただ一人四十歳前後の美しい女性が手を合わせ、涙を流しながらしばらく動かなかった。
 彩香の実母、奈美であった。
 目を閉じて俯いたままの勇樹は気がつかなかったが、彼の妻、杏子がどことなく彩香に似たその女性に気をとられた。

 通夜を終えて、式場からだんだんと人影が少なくなり、ほとんどの人が引き上げた後、松尾がロビーで一息ついていたところへ彩香がやって来た。

「松尾さん、何から何までお世話になって本当にありがとうございます。これで明日は気持ちよくお祖母ちゃんを送り出してあげることができます、本当にありがとうございました」
 そう言って傍らに腰を下ろした彩香に松尾が話し始めた。
「お父さんと話はできたの?」

「いいえ、そんなに話したいとは思いませんから……」

「そうなの、でもね、彩香さん、第三者の私がこんなことを言うべきではないのかもしれないけど、昨日のお話を聞いていてね、あなたのお父さんが長い間帰ってこなかった気持ちがわかるような気がするの……」
 松尾はふっと遠くを見つめながら思いを語った。

「えっ、どうしてですか、自分が新しく作った家族が大事だから、昔の家族なんてどうでもよかった。ただそれだけですよっ。私はずっとそう思っています」
 驚いた彩香は自らに言い聞かせるように語った。

「苦労したあなたは、そういう風に思いたいのかもしれないわね、でもそれは違うと思う……」

「どうしてですか」今にも折れそうな声であった。

「お父さんはね、あなたに申しわけなかったのよ。幼いあなたを残して遠くへ行って、結婚して、新しい家族を創ってしまった。そんな幸せな姿をあなたに見せたくなかったのよ。たった一人東京に残してお祖母ちゃんと暮しているあなたに、自分が創った幸せな新しい家族を見せたくなかったのよ。お父さんは母一人、子一人で育ってきた人なんでしょ、そのお母さんに会いたくない筈がない、たったひとりで残してきた娘に会いたくない筈がない、でも自分の幸せな家族を見せてしまうとあなたを傷つけてしまうから帰ってくることができなかったのよ」

「……」そこまで聞くと、彩香は俯いたまま、じっと一点を見つめ、父の苦悩を思い始め、目頭が熱くなるのを懸命に堪えた。
 しばらくして顔を上げると考えたこともなかった父の思いを語る松尾を、唇を小さく噛みしめたまま、瞬きもしないで見つめ、悲しそうに再び俯いてしまった。

「あなたは帰ってこなかったお父さんを無責任な人だと思っているかもしれない、でもそれはあなたに対する実の父親の言葉にはできない思いやりのような気がする。ひょっとしたら願掛けでもしていたのかもしれないわね……」

「えっ!」驚いた彩香が涙に濡れた瞳で松尾を見つめると

「わからないわよ、でも二十年もそれを通したって事はよっぽどの思いがあったのよ、自分が顔を見せないことで娘が幸せになれる、その二つを天秤にでもかけていたのかもしれないわね」
 優しく諭すように話す松尾は母親のような暖かい眼差しで彩香に微笑みかけた。

 信頼する松尾の言葉だから
(そうなのかもしれない、それが正解なのかもしれない、父も若い妻に去られ、二歳の自分を母に託して遠くへ行かなければならないのは断腸の思いだったのかもしれない…… そんな思いの中で自分を支えてくれる人に出会ったのだろう、それは誰も責めることができない……)
 彩香の脳裏にそんな思いが浮かびあがってきた。

「父と話してみます」顔を上げた彩香が微笑んで松尾にそう言うと

「そうね、それがいいと思うわ、何があっても血はつながっているんだから、どんな思いを持っていてもこの血だけはどうすることもできない」

「ありがとうございます。仕事でもご迷惑ばかりおかけしているのに、私生活までご迷惑をおかけしてしまって……」

「こちらこそ、第三者が好きなこと言ってごめんなさい」

「とんでもないです」

「私は最初にあなたを見たとき、とても暖かい家庭でご両親の愛情をいっぱいに受けて育ってきたんだろうなって思ったの。 あなたにはそう思わせるだけのやさしさや人を包み込むような暖かさがあった。でも昨日、話を聞いて正直びっくりしたわ。それでもね、そんな境遇の中であなたをそこまで育てられたお祖母様と、それをきっちりと受け止めたあなたに、私は本当に頭が下がる思い……」
 敬意の思いを込めた松尾が目を閉じで頷くと

「そんな……」彩香は恐れ入って目を細めた。

 翌日無事に葬儀を終えた彩香と勇樹達四人は、居間で沈黙の時を過ごしていた。
「彩香さん、昨日のお通夜もそうだったけど、今日もお焼香の時に、長いことお参りをしていた美しい女性の方がいらっしゃったけど、実のお母様だったの? とても四十歳を過ぎているようには見えなかったけど……」

「はい、昨日電話したんです。お祖母ちゃんに謝ってほしくて……」

「何度か会った事があったの?」驚いた勇樹が尋ねると、

「高校の時に一度だけ尋ねてきたの、だけど私は、あの人のこと憎んでいたから……」

「その時に何かあったの?」心配になった杏子が口をはさんだ。

「なんか年の離れたお金持ちの人と暮らしていて、一緒に住もうって言われたの、でも断ったわ。 そしたら百万円を渡してきたの、私は頭にきて、お祖母ちゃんのこれまでの苦労を百万円で買うつもりなのって、突き返してしまったの。それからは一度も会っていない……」

「そうか、そんなことがあったのか……」
 勇樹はつくづくと時の流れを感じていた。

「お父さん……」
 突然、彩香にそう呼ばれて勇樹は驚いた、杏子も同じだった。

「一つだけ教えてくれない…… どうして二十年間帰って来なかったの、それだけでいいから教えて……!」
決して責めるような言い方ではなかった。 むしろ哀願に近いような言葉で、しかし厳しい目で見つめて来る彩香の顔を、彼は見ることができなかった。

「それは…… 」
 その後の言葉が続かない、何を言っても言い訳になるから、彼はそれ以上、気持ちを言葉に載せたくはなかった。

 黙って再び俯いてしまった彼に
「私に悪いって思っていたの?  私を捨てて新しい家族ができて、その幸せな家族を私には見せたくなかったの? それを見せると私が傷つくと思ったの……!」彩香は静かに思いを言葉に載せた。

 二十年の思いを突きさされた勇樹は、顔を伏せたまま零れ落ちる涙をこらえることができなかった。
 一見、人から見れば幸せそうに見える四人の家族であったが、でも彼の心には常に東京で暮らす彩香のことが気にかかっていた。
 小学校に入学前、彼女をひきとろうと思って実家へ出向いたあの日、なついてくれない我が子に、彼は諦めて九州へ帰ってしまったが、どうしてあの時、無理をしてでも娘を連れて帰らなかったのか、その後悔はいつまでも彼の心を蝕(むしば)んだ。
 今の幸せそうな自分たちが彩香の前に現れると、彩香はどこに自分の居場所を探すんだろう、どうして私には両親がいないのだろうって…… 実の父親でありながら自分の父親ではない姿を彼女の前に晒(さら)す事は絶対にできなかった。
 年老いた母にひと目会いたいという想いもあった、成長したわが娘にひと目会いたいという想いもあった。 ひとりで東京へ行こうかと考えたこともあったが、でもそれは自分の想いを叶えるだけで、 決して彩香にとっていいことにはならないかもしれない。
 それだったら自分も母や彩香と同じ思いを抱えて生きていこう…… そうした思いが、心に闇を抱えたまま彼に二十年という歳月を過ごさせてしまった。

「あなた……」夫の涙を見つめながら、杏子は彼の思いが今まで分からなかった自分が情けなくてしかたなかった。

 彩香もその涙を見て
(松尾さんの言う通りだった。 私は人の思いがわからないまま知らないうちに憎しみを持ってしまった…… 父が迎えに来た六歳だったあの日、私が父について行っていれば、私も祖母も異なった人生があったかもしれない。どうして私にこの父を責めることができるのっ…… もういい、彼はこんな素敵な人と結婚して二人の男の子を授かって、私が微笑んであげることができれば、この父は今後の人生を幸せに生きていくことができる。きっとお祖母ちゃんだったらそうしなさいって言うだろう……)  そう思った。

 しばらく沈黙の後
「お父さん、いいのよ、私は幸せだったから、今も幸せだから…… だから私への後悔の思いはもう捨てて、今のお父さんの幸せを阻害しているのは私への想いだけ、そんなの迷惑よ。私は大丈夫、だからお父さんは家族を大事にしてあげて!」

 一瞬顔を上げて娘を見つめた父親は、両手で顔を抑えると滝のように流れ始めた涙をどうすることもできず、再び俯いて子供のように嗚咽を繰り返した。
 妻も二人の息子も、勇樹の涙は見たことがなかった。ましてこんなに取り乱した夫を、そして父を見たことは決してなかった。


 妻は俯いたまま嗚咽を繰り返す夫を見つめながら

( 二十年の苦悩はこんなに大きかったんだ…… 過去の人生にとらわれないで今の人生を幸福に生きている人達はたくさんいる。いつまでも過去の過ちに心を乱されることなく、前を向いて歩いて行くことが大事なはず…… 人として幸せに生きて行くということはそういうことなのかもしれない。だから、私は、たった一人で何度も東京へ足を運んで、お義母さんの所へやって来た。「次に来るときは、二人の子供を連れて来ていいもいいですか」と尋ねたら、義母は、「大丈夫、あなたが育てた息子だったら、彩香は大丈夫……」そう答えてくれた。こんなにうれしい言葉はなかった。 何度話しても、東京に目を向けないあなたに、私はむしろ怒りに近いものを感じていた。ここに来るたびに、あなたが忙しくて動けないって言い訳すると「そう、それは仕方ないわね、でも元気だったらそれでいいわよ、時々はメールのやり取りもしているし、あの子の気持ちはわかっているから……」と義母は私の心を汲んでくれた。でも、あの子の気持ちはわかっているから……と言ったその言葉は、このことだったのだろうか…… お義母さんはこの人の、この気持ちがわかっていたのだろうか…… それがわかっていたから二十年もの長い間、たった一人しかいない息子に会うことができなくても、耐えてくることができたのだろうか……… もし…… もし、私がそこに気づいていたら、何かできたはず、お義母さんが生きているうちに何かできたはず…… たった一人しかいない息子に二十年も会うことができずに亡くなってしまったのは、私のせいかもしれない……)
そこにたどり着いてしまうと、妻の杏子はあふれ出る涙を懸命にこらえようとするが、どうすることもできず、義母の遺骨に目をむけた。

「あなた宛てのメールです。二ヶ月も前に書いていたみたいです。ごめんなさい、私も読んでしまいました」
 彩香はそう言いながら、何かに沈み込んでしまいそうな杏子を見て、祖母の携帯電話を静かに差し出した。

『杏子さん、いつも気を使ってくれてありがとう。
とても感謝しています。
あなたがいてくれるから、勇樹のことは何も心配していません。
ただ、あの子が心に抱えている闇が気になりますけど、ここは誰も触れることができないと思っています。
でも、血のつながりがある以上、いつの日か、あの子も彩香と向き合う日が来ると思います。あなたがいてくれたから、あの子は思いを抱えたままでも生きてくることができたのだと思います。
あなたのことだから、いつの日かあの子の闇に気づいた時、自分を責めてしまうかもしれませんが、それは間違っていますよ。彩香とあの子の関係は誰かが努力してどうにかなるものではありません。
時間も必要だし、きっかけだっているかもしれない、タイミングだって必要かもしれません。
私は、彩香の花嫁姿を見るまでは絶対に元気でいるつもりです。その時が二人を再び向き合わせてくれればいいのに、と思っています。
あなたには血のつながりのない彩香のことで、本当に申し訳ないと思っています。
でも、あの子が6歳の時、九州に連れて帰ろうと、懸命にあの子に寄り添おうとしてくれたあなたの姿を今でも鮮明に覚えています。あの時、この人なら彩香を託しても大丈夫、心でそう思っていました。結果として彩香は私と二人で生きてきましたが、でもそのあなたなら、二人が向き合うことを必ず喜んでくれると信じています。
元気なようでも、歳を取ると、いつなにが起きるかわかりません。ここに思いを保存していれば、何かあった時には、彩香が見つけてくれると思っています。
それから一つだけお願いがあります。
彩香もいつかはお嫁に行って家を出て行きます。その時には、お墓と仏壇をお願いします。何がどうあっても、川中の跡取りは勇樹なのです。財産も何もありませんが、家を継いで、先祖を守って行くということは、その家の歴史をつないでいくということだと思うのです。
いつの日か、勇樹と彩香が微笑んで話している中に、あなたも一緒にいて…… そんな一つの歴史ができたら、亡くなったあの子の父親も喜んでくれると思うのです。どうか後のこと、よろしくお願いします。 』

 読み終えた杏子は、俯いたまま、一度頭を下げるとその携帯電話を彩香に返したが、義母の思いを知って、再び流れ落ちる涙に彼女はバックからハンカチを取り出し目に押し当てた。

(なんという娘であろう、なぜ捨てた、と責められても仕方がない父親の幸せのために、自分の思いを断ち切ってしまった、わずか二日の間に…… そして、苦悩する私に義母の思いを伝えてくれて……)

「彩香さんありがとう、私は何もわからなかった、二十年もこの人と生きてきて、この人の抱える闇に気がついていなかった」
 彼女はあふれ出る涙に嗚咽を繰り返しながらも、懸命に言葉を探し続けた。

「でも、お義母さんは、この人の心を知っていて、私のことまで心配してくれて…… 私は何もできなかったのに……」

「そんなことはないです。あなたが来てくれた日は、お祖母ちゃんはとてもうれしそうに話していました。私に気を使いながら話してたけど、でもとてもうれしそうでした。来て下さっただけで十分だったと思います」


 その二日後、あいさつ回りを済ませた彼女は業務に復帰した。
松尾のおかげで、父とのわだかまりもなくなり、彼女はさわやかに仕事を続けていた。



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2020/06/29 13:35 此道一歩



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