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現代小説/歴史小説

『ざわめき』

積 緋露雪著



――君にはあのざわめきが聞こえないのかい? 
――えつ、何の事だい? 
――時空間が絶えず呻吟しながら《他》の《何か》への変容を渇仰してゐるあのざわめく音が、君には聞こえないのかい? 
――ふむ。聞こえなくはないが……その前に時空間が渇仰する《他》とはそもそも何の事だね? 
――へつ、《永劫》に決まつてらあ! 
――えつ、《永劫》が時空間にとつての《他》? 
――さうさ。《永劫》の相の下で時空間はやつと自らを弾劾し果(おほ)せられるのさ。さうする事で時空間はのつぴきならぬところ、つまり、《金輪際》に追ひやられて最終的には《他》に変化(へんげ)出来る。
――へつ、それつて《特異点》の事じやないのかね? 
――……すると……君は《永劫》は《特異点》の中の一つの相に過ぎぬと看做してゐるのか……。しかしだ……。
――しかしだ、《特異点》は《存在》が隠し持つてゐる。つまり、時空間と雖も《存在》に左右される宿命を負つてゐる。即ち、時空間は《物体》への変化を求めてゐるに過ぎぬ! 違ふかね? 
――否! 《存在》は《物体》の専売特許じやないぜ。時空間もまた「吾とは何ぞや」と自らが自らに重なる不愉快極まりない苦痛をぢつと噛み締めながら自身に我慢してゐるに違ひない。
――では君にとつて《特異点》はどんなものとして形象されてゐるんだい? 
――奈落さ。
――ふむ。それで? 
――此の世にある《物体》として《存在》してしまつたものはそれが何であらうとも《地獄》の苦痛を味はひ尽くさねばならぬ。
――ふつ、それは時空間とて同じではないのかね? 
――さうさ……。時空間も《存在》する以上、《地獄の奈落》を味はひ尽くさねばならぬ。
――その奈落の底、つまり《金輪際》が君の描く《特異点》の形象か? 
――《底》といつても、つまり《金輪際》とは限らないぜ。もしかすると、へつへつへつ、《天上界》が《特異点》の在処かもしれないぜ。
――ちえつ、だからどうしたと言ふんだ? それはある種の詭弁に過ぎぬのじやないかね? 
――……自由落下……。俺が《特異点》に対して思ひ描いてゐる形象の一つに、《落下》してゐながら《飛翔》してゐるとしか《認識》出来ない《自由落下》の、天地左右の無意味な状態を《特異点》の一つの形象と看做してゐる……。
――しかし……、《自由落下》では《主体》はあくまで《主体》のままで、《永劫》たる《他》などに変化する事はないんぢやないかな? 
――ふつ、《意識》自体が《自由落下》してゐると考へるとどうかね? 
――へつ、それも《永劫》の《自由落下》かな? 
――ふつふつふつ、さうさ……。《意識》自体の《永劫》の《自由落下》……。どの道……《特異点》の相の下では《意識》……若しくは《思念》以外……その存在根拠が全て怪しいからな。
と、こんな無意味で虚しい事をうつらうつらと瞑目しながら《異形の吾》と自問自答してしまふ彼は、辺りの灯りが消えて深夜の闇に全的に没し、何やら不気味な奇声にも似た音ならざる時空間の《呻く》感じを無闇矢鱈に感じてしまふ、それでゐてぢつと黙したまま何も語らぬ時空間に結果として完全に包囲された状態でしかあり得ぬ己自身に対して、唯唯自嘲するのみしか術がなかつた口惜しさを噛み締めてゐた。この時空間のぴんと張り詰めたかの如き緊迫した感じは、彼の幼少時から続く不思議な感覚――それは彼にとつてはどうしても言葉では言ひ表せないある名状し難い感覚――で、彼にとつて時空間は絶えず音ならざる音を発する奇怪な《ざわめき》に満ちたある《存在》する《もの》、若しくは《実体》ある《もの》として認識されるのであつた。
――くくくあきききいんんん――。
 それは彼の脳が勝手にでつち上げた代物かもしれぬが、その時、時空間の《ざわめき》は例へばそんな風に彼には音ならざる《ざわめき》として聞こえてしまふのであつた。そんな時彼は
――ふつふつ……。
と何時も自嘲しながら自身に対して薄ら笑ひを浮かべてはその彼特有であらう時空間の音ならざる《ざわめき》をやり過ごすのであつたが、しかし、さうは言つても彼には彼方此方で時空間が《悲鳴》を上げてゐるとしか感じられないのもまた事実であつた。それは彼にとつては時空間が《場》としてすら《己》を強ひられる事への《悲鳴》としてしか感じられなかつたのである。それ故か彼にとつては《己》は全肯定するか全否定するかのどちらかでしかなく、しかし、彼方此方で時空間が《悲鳴》を上げてゐるとしか感じられない彼にとつては当然、全肯定するには未だ達観する域には達する筈もなく、只管(ひたすら)《己》を全否定する事ばかりへと邁進せざるを得ないのであつた。

…………
…………

――へつ、己が嫌ひか? 
――ふつふつ、直截的にそれを俺に聞くか……。まあ良い。多分、俺は俺を好いてゐるが故にこの己が大嫌ひに相違ない……。
――へつ、その言ひ種さ、お前の煮え切らないのは。
――ふつふつ、どうぞご勝手に。しかし、さう言ふお前はお前が嫌ひか? 
――はつはつはつはつはつ、嫌ひに決まつてらうが、この馬鹿者が! 
――……しかし……この《己》にすら嫌はれる《己》とは一体何なのだらうか? 
――《己》を《己》としてしか思念出来ぬ哀しい存在物さ。
――それにはこの音ならざる《悲鳴》を上げてゐる時空間も当然含まれるね? 
――勿論だぜ。
――きいきいきいんんんんん――。
と、その時、突然時空間の音ならざる《悲鳴》がHowling(ハウリング)を起こしたかのやうに彼の鼓膜を劈(つんざ)き、彼の聴覚機能が一瞬麻痺した如くに時空間の《断末魔》にも似た音ならざる大轟音が彼の周囲を蔽つたのであつた……。
――今の聞ゐただらう? 
――ああ。
――何処かで因果律が成立してゐた時空間が《特異点》の未知なる世界へと壊滅し変化した音ならざる時空間の《断末魔》に俺には思へたが、お前はどう聞こえた?
――へつ、《断末魔》だと? はつはつはつ。俺には《己》が《己》を呑み込んで平然としてゐるその《己》が《げつぷ》をしたやうに聞こえたがね――。
――時空間の《げつぷ》? 
――否、《己》のだ! 
――へつ、だつて時空間もまた時空間の事を《己》と《意識》してゐる筈だらう? つまりそれは《時空間》が《時空間》を呑み込んで平然として出た《時空間》の《げつぷ》の事ぢやないのか? 
――さう受け取りたかつたならばさう受け取ればいいさ。どうぞご勝手に、へつ。
――……ところで《己》が《己》を呑み込むとはどう言ふ事だね? 
――その言葉そのままの通りだよ。此の世で《己》を《己》と自覚した《もの》は何としても《己》を呑み込まなければならぬ宿命にある――。
――仮令《己》が《己》を呑み込むとしてもだ、その《己》を呑み込んだ《己》は、それでも《己》としての統一体を保てるのかね? 
――へつ、無理さ! 
――無理? それじやあ《己》を呑み込んだ《己》はどうなるのだ? 
――……《己》は……《己》に呪はれ……絶えずその苦痛に呻吟する外ない《己》であり続ける責苦を味はひ尽くすのさ。
――へつ、《己》とは地獄の綽名なのか? 
――さうだ――。
――さうだだと? 《己》が地獄の綽名だといふのか?  
――じやあ、お前は《己》を何だと思つてゐたのだ? へつ、つまり、お前は《己》を何と名指すのだ? 
――そもそもだ、《己》が《己》であつてはいけないないのか? 
――いや、そんな事はないがね、しかし、《己》は《己》と名指される事を最も嫌悪する《存在》ぢやないかね? 
――ちえつ。
――だから、《存在》する《もの》全てはこの地獄でざわめき呻吟せざるを得ないのさ。
――えつ、地獄での呻吟だと? 先程このざわめきは《己》が《己》を呑み込んだ《げつぷ》と言つた筈だが、それがこのざわめきの正体ではないのかい? 
――その《げつぷ》が四方八方至る所で起こつてゐるとしたならば、お前は何とする? 
――何とするも何もなからう。無駄な抵抗に過ぎぬ事は火を見るよりも明らかだがね……、唯、耳を塞ぐしかない。まあ、それはさてをき、これは愚問に違ひないが、そもそも《己》は《己》を呑み込まなければ一時も《存在》出来ぬ《存在》なのかね? 
――さうさ。《己》は《己》になる為にも《己》を絶えず呑み込み続ける外ないのさ。
――それは詭弁ではないのか? 
――詭弁? 
――さうさ。《己》は《己》なんぞ呑み込まなくても《己》として既に《存在》してゐる……違ふかね? 
――つまり、お前は《存在》すれば即《己》といふ《意識》が《自然》に芽生えると考へてゐるといふ事か……。
――さうだ。
――ふつ、よくそんな能天気な考へに縋れるね。ところで、お前はお前である事が《悦楽》なのかい? 
――《悦楽》? ははあ、成程、自同律の事だな。
――さう、自同律の事さ。詰まる所、お前は自同律を《悦楽》をもつて自認出来るかね? 
――ふつ、自同律が不快とばかりは決められないんぢやないかね? 自同律が《悦楽》であつてもいい筈だ。
――じやあ、この耳障りこの上ないざわめきを何とする? 
――もしかすると地獄たる《己》といふ《存在》共が「吾、見つけたり。Eurika!」と快哉を上げてゐるのかもしれないぜ。
――ふはつはつはつ。冗談も大概にしろよ。
――冗談? 《己》が《己》である事がそんなにをかしな事なのかい? 
――《己》が《己》である事の哀しさをお前は知らないといふのか。《己》が《己》である事の底無しの哀しさを。
――馬鹿が――。知らない訳がなからうが。詰まる所お前は「俺」なのだからな、へつ。
――ならば尚更この耳障りこの上ないざわめきを何とする? 
――ふむ。ひと言で言へば、このざわめきから遁れる事は未来永劫不可能だ。つまり、お前が此の世に存在する限り、そして、お前が彼の世へ行つてもこのざわめきから遁れられないのさ。
――へつ、だからこのざわめきを何とする? 
――ちえつ、お手上げと言つてゐるだらう。率直に言つて、この《存在》が《存在》してしまふ哀しさによるこの耳障り極まりないざわめきに対しては何にも出来やしないといふ事さ。
――それぢや、このざわめきを受け入れろと? 
――ふん、現にお前はお前である事を受け入れてゐるぢやないか! 仮令《存在》の《深淵》を覗き込んでゐようがな。
――くいんんんんんん〜〜。
――ふつ、また何処ぞの《己》が《己》に対してHowlingを起こしてゐやがる。何処かで何ものかが《存在》の《げつぷ》をしたぜ、ちえつ。
――ふむ。……いや……もしかするとこれは《げつぷ》じやなくて《存在》の《溜息》ぢやないのかね? 《存在》が《存在》してしまふ事の哀しき《溜息》……。
――へつへつ、その両方さ。
――ちえつ、随分、都合がいいんだな。それぢや何でもありじやないか? 
――《存在》を相手にしてゐるんだから何でもありは当たり前だろ。
――当たり前? 
――さう、当たり前だ。ところで一つ尋ねるが、これまで全宇宙史を通して《自存》した《存在》は出現したかい? 
――藪から棒に何だね、まあ良い。それは《自律》じやなくて《自存》か? 
――さう、《自存》だ。つまり、この宇宙と全く無関係に《自存》した《存在》は全宇宙史を通して現はれた事があるかね? 
――ふむ……無いに違ひないが……しかし……この宇宙は実のところそんな《存在》が出現する事を秘かに渇望してゐるんじやないのかな……。
――それがこの宇宙の剿滅を誘はうとも? 
――さうだ。この宇宙がそもそも剿滅を望んでゐる。
――何故さう思ふ? 
――何となくそんな気がするだけさ。
 有機物の死骸たるヘドロが分厚く堆積した溝川(どぶかは)の彼方此方で、鬱勃と湧く腐敗Gas(ガス)のその嘔吐を誘ふ何とも遣り切れないその臭ひにじつと我慢する《存在》にも似たこの時空間を埋め尽くす《ざわめき》の中に、《存在》する事を余儀なくせざるを得ない彼にとつて、しかしながら、それはまた堪へ難き苦痛を彼に齎すのみの地獄の責苦にしか思へぬのであつたが、それは詰まる所、《存在》の因業により発せられる《断末魔》が《ざわめき》となつて彼を全的に襲ひ続けると彼には思はれるのであつた。

…………
…………

――《存在》は自らの剿滅を進んで自ら望んでゐるのだらうか? 
――《存在》の最高の《愉悦》が破滅だとしたならばお前は何とする? 
――ふむ……多分……徹底的に破滅に抗ふに違ひない。
――仮令それが《他》の出現を阻んでゐるとしてもかい? 
――ああ。ひと度《存在》してしまつたならば仕方がないんぢやないか。
――仕方がないだと? お前はさうやつて《存在》に服従するつもりなのかい? 
――《存在》が自ら《存在》する事を受け入れる事が《存在》の服従だとしても、俺は進んでそれを受け入れるぜ。仮令それが地獄の責苦であつてもな。
――それは、つまり、《死》が怖いからかね? 
――へつ、《死》を《存在》自らが決めちやならないぜ、《死》が怖からうが待ち遠しいからうがな。《存在》は徹底的に《存在》する事の宿業を味はひ尽くさなければならぬ義務がある。《存在》が《存在》に呻吟せずに滅んで生れ出た《他》の《存在》などお前は認証出来るかい? 何せこの宇宙が自ら《存在》に呻吟して《他》の宇宙の出現を渇望してゐるのだからな。
――つまり、《存在》が呻吟し尽くさずして何ら新たな《存在》は出現しないと? 
――ふつ、違ふかね? 
――くいんんんんんんん〜。
 また何処かで《吾》が《吾》を呑み込む際に発せられる《げつぷ》か《溜息》か、将(はた)又(また)《嗚咽》かがhowling(ハウリング)を起こして彼の耳を劈くのであつた。それは《存在》が尚も存続しなければならぬ哀しみに違ひなかつた。《他》の《死肉》を喰らふばかりか、この《吾》すらも呑み込まざるを得ぬ《吾》といふ《存在》の悲哀に森羅万象が共鳴し、一瞬Howling(ハウリング)を起こす事で、それはこの宇宙の宇宙自身に我慢がならぬ憤怒をも表はしてゐるのかもしれなかつたのである。その《ざわめき》は死んだ《もの》達と未だ出現ならざる《もの》達と何とか呼応しようと懇願する、出現してしまつた《もの》達の虚しい遠吠えに彼には思へて仕方がなかつたのであつた。
 実際、彼自身、昼夜を問はず《吾》を追ひ続け、やつとの事で捕まへた《吾》をごくりとひと呑みする事で《吾》は《吾》である事を辛うじて受け入れる、そんな何とも遣り切れぬ虚しい日々を送つてゐたのであつた。

…………
…………

――《存在》は全て《吾》である事に懊悩してゐるのであらうか? 
――全てかどうかは解からぬが、少なくとも《吾》が《吾》である事に懊悩する《存在》は《存在》する。
――ふつ、そいつ等も吾等と同様に《吾》といふ《存在内部》に潜んでゐる《特異点》といふ名の《深淵》へもんどりうつて次次と飛び込んでゐるのだらう……。さうする事で辛うじて《吾》は《吾》である事を堪へられる。ちえつ、「不合理故に吾信ず」か――。
――付かぬ事を聞くが、お前は、今、自由か? 
――何を藪から棒に。
――つまり、お前は《特異点》に飛び込んだ事で、不思議な事ではあるが《自在なる吾》、言ひ換へると内的自由の中にゐる自身を感じないのかい? 
――それは天地左右からの解放といふ事かね? 
――へつ、つまり、重力からの仮初の解放だよ。
――重力からの仮初の解放? へつ、ところがだ、《吾》は《特異点》に飛び込まうが重力からは決して解放されない! 
――お前は、今、自身が落下してゐると明瞭に認識してゐるのかね? 
――…………。
――何とも名状し難い浮遊感に包まれてゐるのぢやないかね? 
――へつ、その通りだ。
――それは重力に仮初にも身を、否、意識を任せた結果の内的な浮遊感だらう? 
――ちえつ、それは、つまり、《地上の楽園》を断念し《奈落の地獄》を受け入れた事による《至福》といふ事かね? 
――へつ、何を馬鹿な事を言ふ。それは《存在》が《存在》してしまふ事の皮肉以外の何ものでもないさ。
――皮肉ね。そもそも《存在》とは皮肉な《もの》ぢやないのかね? 
――さうさ。《存在》はその出自からして皮肉そのものだ。何せ、自ら進んで《特異点》といふ名の因果律が木つ端微塵に壊れた《奈落》へ飛び込むのだからな。
――やはり《意識》が《過去》も《未来》も自在に行き交へてしまふのは、《存在》がその内部に、へつ、その漆黒の闇を閉ぢ込めた《存在》の内部に因果律が壊れた《特異点》を隠し持つてゐるからなのか? 
――そしてその《特異点》といふ名の《奈落》は《存在》を蠱惑して已まない。
――へつ、だから《特異点》に飛び込んだ《意識》は《至福》だと? 
――だつて《特異点》といふ《奈落》へ飛び込めば、《意識》は《吾》を追ふ事に熱中出来るんだぜ。
――さうして捕らへた《吾》をごくりと呑み込み《げつぷ》をするか――。へつ、詰まる所、《吾》はその呑み込んだ《吾》に食当たりを起こす。《吾》は《吾》を《吾》として認めやしない。つまり、《吾》を呑み込んだ《吾》は《免疫》が働き《吾》に拒絶反応を起こす。
――それはどうしてか? 
――元元《吾》とは迷妄に過ぎないのさ、ちえつ。
――それでも《吾》は《吾》として《存在》するぜ。
――本当に《吾》は《吾》として《存在》してゐるとお前は看做してゐるのかね? 
――ちえつ、何でもを見通しなんだな。さうさ。お前の見立て通りさ。この《吾》は一時も《吾》であつた試しがない。
――それでも《吾》は《吾》として《存在》させられる。
――くきいんんんんんんんん〜〜。
 一時も休む事なくぴんと張り詰めた彼の周りの時空間で再び彼の耳を劈くその時空間の断末魔の如き《ざわめき》が起きたのであつた。それは羊水の中から追ひ出され、臍の緒を切られて此の世で最初に肺呼吸する事を余儀なくさせられた赤子の泣き声にも似て、何処かの時空間が此の世に《存在》させられ、此の世といふその時空間にとつては未知に違ひない世界で、膨脹する事を宿命付けられた時空間の呻き声に彼には聞こえてしまふのであつた。「時空間が膨脹するのはさぞかし苦痛に違ひない」と、彼は自ら嘲笑しながら思ふのであつた。
――なあ、時空間が膨脹するのは何故だらうか? 
――時空間といふ《吾》と名付けられた己に己が重なり損なつてゐるからだらう? 
――己が己に重なり損なふといふ事は、この時空間もやはり自同律の呪縛からは遁れられぬといふ事に外ならないといふ事だらうが、では何故に時空間は膨脹する道を選んだのだらうか? 
――自己増殖したい為だらう? 
――自己増殖? 何故時空間は自己増殖しなければならないといふのか? 
――ふつ、つまり、時空間は此の世を時空間で占有したいのだらう。
――此の世を占有する? 何故、時空間は此の世を占有しなければならないのか? 
――「《吾》此処にあるらむ!」と叫びたいのさ。
――あるらむ? 
――へつ、さうさ、あるらむだ。
――つまり、時空間もやはり己が己である確信は持てないと? 
――ああ、さうさ。此の世自体が此の世である確信が持てぬ故に《特異点》が《存在》し得るのさ。逆に言へば《特異点》が《存在》する可能性が少しでもあるその世界は、世界自体が己を己として確信が持てぬといふ事だ。
――己が己である確信が持てぬ故にこの時空間は己を求めて何処までも自己増殖しながら膨脹すると? 
――時空間が自己増殖するその切羽詰まつた理由は何だと思ふ? 
――妄想が持ち切れぬのだらう。己が己に対して抱くその妄想が。
――妄想の自己増殖と来たか――。
――実際、己が己に抱く妄想は止めやうがなく、己が己に対する妄想は自然と自己増殖せずにはゐられぬものさ。深海生物のその奇怪な姿形こそが己が己に対して抱く妄想の自己増殖が行き着ゐた一つの厳然とした事実とは思はぬかね? 
――ふつふつ、深海生物ね……。まあ、よい。それよりも一つ付かぬ事を聞くが、お前はこの宇宙以外に《他》の宇宙が《存在》すると考へるかね? 
――つまり、《他》の宇宙が《存在》すればこの宇宙の膨脹はあり得ぬと? 
――へつ、《他》の宇宙が仮に《存在》してもこの宇宙の《餌》でしかなかつたならば? 
――宇宙の《餌》? それは一体全体何の事だね? 
――字義通り只管(ひたすら)この宇宙の《餌》になるべくして誕生した宇宙の事さ。
――生き物を例にして生きて《存在》する《もの》は大概口から肛門まで管上の《他》たる穴凹が内部に存在すると看做せば、その問題の《他》の宇宙をこの宇宙が喰らふといふ事は、即ち、この宇宙内に《他》の宇宙の穴凹がその口をばつくりと開けてゐるといふ事ぢやないかね? 
――ふつふつ、それはまたどうして? 
――つまり、喰らふといふ行為そのものに《他》を呑み込み、《他》をその内部に《存在》する事を許容する外部と通じた《他》の穴凹が、この《存在》にその口を開けてゐなければならぬのが道理だからさ。
――だから、お前はこの宇宙以外の《他》の宇宙が《存在》する可能性があると考へるのかね? 
――当然だらう。
――当然? 
――《他》の宇宙、ちえつ、それはこの宇宙の《餌》かもしれぬが、《他》の宇宙無くしてはこの宇宙が《吾》といふ事を認識する屈辱を味はひはしないぢやないか! 
――やはり、《吾》が《吾》を認識する事は屈辱かね? 
――ああ。屈辱でなくしてどうする? 
――ふつふつ、やはり屈辱なのか、この不快な感覚は――。まあ、それはともかく、お前はこの宇宙以外の《他》の宇宙が《存在》する可能性は認める訳だね? 
――多分だか、必ず《他》の宇宙は《存在》する筈さ。
――それはまたどうしてさう言ひ切れるのかね? 
――それは、この宇宙に《吾》であるといふ事を屈辱を持つて噛み締めながらもどうしても《存在》しちまふ《もの》共が厳然と《存在》するからさ。
――《吾》が《存在》するには必ず《他》が《存在》すると? 
――ああ。《他》無くして《吾》無しだ。
――すると、この宇宙が生きてゐるならばこの宇宙には必ず《他》に開かれた穴凹が《存在》する筈だが? 
――へつ、この《吾》といふ《存在》自体がこの宇宙に開ゐた穴凹ぢやないかね? 
――それは《特異点》の問題だらう? 
――さうさ。《存在》は必ず《特異点》を隠し持たなければ、此の世に《存在》するといふ《存在》そのものにある不合理を、論理的に説明するのは不可能なのさ。
――さうすると、《他》の宇宙は反物質で出来た反=宇宙なんかではちつともなく、《吾》と同様に厳然と実在する《他》といふ事だね? 
――例へば、巨大Black hole(ブラツクホール)は何なのかね? 
――ふつ、Black holeが《他》と繋がつた此の世に開ゐた、若しくはこの宇宙に開ゐた穴凹であると? 
――でなくてどうする? 
――さうすると、銀河の中心には必ず《他》が《存在》すると? 
――ああ、さう考へた方が自然だらう? 
――自然? 
――何故なら颱風の目の如くその中心に《他》が厳然と《存在》する事で颱風の如く渦は渦を巻けると看做せるならば、例へば銀河も大概渦を巻いてゐるのだからその中心に《他》が《存在》するのは自然だらう? 
――ふつ、つまり、渦の中心には《他》に開かれた穴凹が《存在》しなければ不自然だと? 
――而もその《他》の穴凹は、《吾》に《垂直》に《存在》する。
――さうすると、銀河の中心では絶えず《吾》に《垂直》に《存在》する《他》の宇宙に呑み込まれるべく《吾》たる宇宙が《存在》し、さうして初めてこの宇宙が己に対する止めどない妄想を自己増殖させつつ膨脹する事が可能だとお前は考へてゐるのかね? 否、その逆かな。つまり、この宇宙が絶えず己に対する《吾》といふ観念を自己増殖させて膨脹するから、その中心に例へば巨大Black holeを内在させてゐる……。さうだとするとこの耳を劈くこの宇宙の《ざわめき》は己が己を呑み込む《げつぷ》ではなく、《他》が《吾》を呑み込む、若しくは《吾》が《他》を呑み込む《げつぷ》ぢやないのかね? 
――ふつふつふつ、ご名答と言ひたいところだが、未だ《他》の宇宙が確実に此の世に《存在》する観測結果が何一つない以上、この不愉快極まりない《ざわめき》は己が無理矢理にでも己を呑み込まなければならぬその己たる《吾》=宇宙が放つ《げつぷ》と看做した方が今のところは無難だらう? 
――無難? へつ、己に嘘を吐くのは已めた方がいいぜ。
――嘘? どうして嘘だと? 
――へつ、お前は、実際のところ、この宇宙の《存在形式》以外の《存在形式》が必ずなくてはならぬと端から考へてゐるからさ。
――へつへつへつ、図星だね。
 此の世に《存在》するあらゆる《もの》の《存在形式》は、此の宇宙の摂理に従属してゐると看做しなしてしまひ、そして、それをして此の宇宙たる《吾》が《存在》する《存在形式》を、例へば「《吾存在》の法則」と名付ければ、必ずそれに呼応した「《他存在》の法則」が《存在》すると考へた方が《自然》だと思ひながら、その《自然》といふ言葉に《自然》と自嘲の嗤ひをその顔に浮かべてしまふ彼は、此の《吾》=《自然》以外の《他》=《自然》もまた《存在》するに違ひないと一人合点しては、
――ふつ、馬鹿めが! 
と、即座に彼を罵る彼の《異形の吾》の半畳にも
――ふつふつふつ。
と、皮肉たつぷりに己に対してか《異形の吾》に対してか解からぬが、その顔に薄笑ひを浮かべては、
――しかし、《自然》は《吾》=《自然》以外の《他》=《自然》の出現を待ち望む故に、《吾存在》を呑み込む《吾存在》がその《吾》に拒絶反応を起こしてはこの耳障りな断末魔の如き《ざわめき》が《吾》の彼方此方にぽつかりと開ゐた《他》たる穴凹から発してゐるに違ひないのだ。
と、これまた一人合点する事で、彼は彼の《存在》に辛うじて我慢出来るそんな切羽詰まつたぎりぎりの《存在》の瀬戸際で弥次郎兵衛の如くあつちにゆらり、こつちにゆらりと揺れてゐる己の《存在形式》を悲哀を持つて、しかし、心行くまで楽しんでゐるのであつた。

…………
…………

――なあ、「《他存在》の法則」に従属する《他》=宇宙における《存在》もまた奇怪千万な《光》へと還元出来るのだらうか? 
――つまり、それつて《光》の《存在》が此の宇宙たる《吾》=宇宙と《他》=宇宙を辛うじて繋ぐ接着剤と看做せるか、といふ事かね? 仮にさうだとすればそれはまた重力だとも、さもなくば時間だとも考へられるね? 
――ああ、何でも構はぬが、《吾》が《存在》すれば、《他》が《存在》するのが必然ならばだ、此の宇宙が《存在》する以上、此の宇宙とは全く摂理が違ふ、つまり、「《他存在》の法則」に従属する《他》=宇宙は何としても《存在》してしまふのは、《もの》の道理だらう? 
――ああ。
――そして、《吾》と《他》は何かしらの関係を持つのもまた《もの》の道理だらう? 
――ああ、さうさ。此の世における《他》の《存在》がそもそも「《他存在》の法則」を暗示させるし、《他》が《存在》すれば《吾》と何かしらの関係を《他》も《吾》も持たざるを得ぬのが此の宇宙での道理だが、さて、しかし、仮令《他》=宇宙が《存在》してもだ、此の《吾》=宇宙と関係を持つかどうかは、とどのつまりは「《他存在》の法則」次第ぢやないかね? 
――それは《吾》と《他》が関係を持つのは徹頭徹尾、此の《吾》=宇宙での「《吾存在》の法則」による此の世の出来事は、《他》=宇宙での「《他存在》の法則」に変換出来なければならず、つまり、換言すれば、《吾》=宇宙と《他》=宇宙の関係は関数で表わされねばならず、更にそれは最終的には光といふ奇怪千万な《存在形式》に還元されてしまはなければならぬといふ事だね? 
――ああ、さうさ。
――ならばだ、《吾》が「《吾存在》の法則」のみに終始すると《吾》=宇宙は未来永劫《他》=宇宙の《存在》を知らずにゐる可能性もあるといふ事だね? 
――さうさ。むしろその可能性の方が大きいのぢやないかな。実際、此の世でも《吾》が未来永劫に亙つて見知らぬ《他》は厳然と数多《存在》するぢやないか。 
――それはその通りに違ひないが、しかし、《吾》と未来永劫出会ふ事なく、一見《吾》とは無関係に思へるその《他》の《存在》、換言すれば《存在》の因果律無くしては《吾》は決して此の世に出現出来ないとすれば、《吾》は必ず、それが如何なる《もの》にせよ、その《もの》たる《他》と何らかの関係を持つてしまふと考へられぬかね? 
――へつ、つまり、此の宇宙も数多《存在》するであらう宇宙の一つに過ぎず、換言すれば、数多の宇宙が《存在》するMultiverseたる「大宇宙」のほんの一粒の砂粒程度の塵芥にも等しい局所の《存在》に過ぎぬと? 
――へつへつへつ、その「大宇宙」もまた数多《存在》するつてか――。
――つまり、《吾》と《他》とは共に自己増殖せずにはゐられぬFractal(フラクタル)な関係性にあると? 
――多分だが、さうに違ひない。しかし、「《吾存在》の法則」と「《他存在》の法則」は関数の関係にはあるが、全く別の《もの》と想定した方が《自然》だぜ。
――何故かね? 
――ふつ、唯、そんな気がするだけさ。
――そんな気がするだけ? 
――さうさ。例へば私と《他人》は全く同じ種たる人間でありながら、《吾》にとつては超越した《存在》としてその《他人》を看做す外に、《吾》は一時も《他人》を承認出来ぬではないか! 而もだ、私が未来永劫見知らぬ未知の《他人》は数多《存在》するといふのも此の世の有様として厳然とした事実だぜ。
――逆に尋ねるが、《吾》が仮に《他》と出会つた場合、それはStarburst(スターバースト)の如く《吾》にも《他》にもどちらにも数多の何かが生成され、ちえつ、それは爆発的に誕生すると言つた方がいいのかな、まあ、いづれにせよ、《吾》と《他》と出会ひ、つまりは《吾》=宇宙と《他》=宇宙の衝突は、数多の《吾》たる何かと、数多の《他》たる何かを誕生させてしまふとすると、それは寧ろ男女の性交に近しい何かだと思ふのだが、君はどう思ふ? 
――それは銀河同士の衝突を思つての君の妄想だらうが、しかし、此の世が《存在》するのであれば、彼の世もまた《存在》せねば、《存在》は爆発的になんぞ誕生はしなかつたに違ひないと思ふが、つまり、彼方此方で「くくくきききいんんんんん〜〜」などといふ時空間の《ざわめき》は起こる筈はない。
――へつ、《吾》=宇宙が《吾》を呑み込んだげつぷだらう、その《ざわめき》は? 
――さうさ。《吾》=宇宙が《他=吾》若しくは《反=吾》、つまり、《吾ならざる吾》を呑み込まざるを得ぬ悲哀に満ちた溜息にも似たげつぷさ。
――くくくききききいんんんんん。
と、再び彼の耳を劈く断末魔の如き不快で耳障りな時空間の《ざわめき》が彼を全的に呑み込んだのであつた。そして、彼は一瞬息を詰まらせ、思はず喘ぎ声を
――あつは。
と漏らしてしまひ、《吾》ながら可笑しくて仕様がなかつたのであつた。
――ぷふい。

…………
…………

――何がをかしい? 
――いや何ね、《吾》と《他》の来し方行く末を思ふと、どうも俺にはをかしくて仕様がないのさ。
――膨脹する此の《吾》=宇宙が《他》を餌にし、また、その《他》を消化する消化器官といふ《他》へ通じる穴凹を持たざるを得ぬ宿業にあるならばだ、そして、此の《吾》が数多の《他》に囲まれて《存在》してゐるに違ひないとすると、此の《吾》といふ《存在》のその不思議は、へつ、《吾》といふ《存在》もまた《他》に喰はれる宿命にあるをかしさは、最早嗤ふしかないぢやないか。
――あつは、さうだ、《吾》が《他》に喰はれる! さうやつて《吾》と《他》は輪廻する。
――つまり、《吾》が《他》を喰らへば、《他》は《吾》に消化され、《物自体》が露になるかもしれぬといふ事だらう? 
――《吾》もまた然りだ。しかし、それは《物自体》でなく、《存在》の原質さ。
――《存在》の原質? 
――さう。ばらばらに分解された《存在》の原質には勿論自意識なる《もの》がある筈だが、そのばらばらの《存在》の原質が何かの統一体へと多細胞生物的な若しくは有機的な《存在》へと進化すると、その総体をもつてして「俺は俺だ!」との叫び声、否、羊水にたゆたつてゐた胎児が産道を通り、つまり、《他》へ通づる穴凹を通つて生まれ出た赤子が、臍の緒を切られ最初に発するその泣き声こそが、「俺は俺だ!」と、朧に自覚させられる契機になるのさ。
――つまり、それは、此の時空間の彼方此方で発せられる耳を劈く《ざわめき》こそが「俺は俺だ!」と朧に自覚させられるその契機になつてしまふといふ事か? 
――だから、げつぷなのさ。《吾》はげつぷを発する事で朧に《吾》でしかないといふ宿業を自覚し、ちえつ、《吾》は《吾》である事を受容するのさ。
――受容するからこそ《吾》がげつぷを発する、否、発する事が可能ならばだ、《吾》が《吾》にぴたりと重なる自同律は、《吾》における泡沫の夢に過ぎぬぢやないかね? つまり、《吾》は《吾》でなく、そして、《他》は《他》でない。
――さう。全《存在》が己の事を自己同一させる事を拒否するのが此の世の摂理だとすると、へつ、《存在》とはそもそもからして悲哀を背負つた此の世の皮肉、つまり、それは特異点の《存在》を暗示して已まない何かの《もの》に違ひない筈だ――。
――《存在》そのものが、そもそも矛盾してゐるぢやないか! 
――だから《存在》は特異点を暗示して已まないのさ。
――へつ、矛盾=特異点? それは余りにも安易過ぎやしないかね? 
――特異点を見出してしまつた時点で、既に、特異点は此の世に《存在》し、その特異点の面(をもて)として《存在》が《存在》してゐるとすると? 
――逆に尋ねるが、さうすると、無と無限の境は何処にある? 
――これまた、逆に尋ねるが、それが詰まるところ主体の頭蓋内の闇たる五蘊場に明滅する表象にすら為り切れぬ泡沫の夢達だとすると? 
――ぶはつ。
――をかしければ嗤ふがいいさ。しかし、《存在》は、既に、ちえつ、「先験的」に矛盾した《存在》を問ふてしまふ《存在》でしかないといふTautology(トートロジー)を含有してゐる以上、《存在》は《存在》する事で既に特異点を暗示しちまふのさ。
――さうすると、かう考へて良いのかね? つまり、《存在》は無と無限の裂け目を跨ぎ果(をほ)せると? 
――現にお前は《存在》してゐるだらう? 
――くきいんんんんん――。
と、再び彼は耳を劈く不快な《ざわめき》に包囲されるのであつた。

…………
…………

――しかし、《存在》は己の《存在》に露程にも確信が持てぬときてる。その証左がこの不愉快極まりない《ざわめき》さ。
――ふつふつふつ。《存在》が己の《存在》に確信が持てぬのは当然と言へば当然だらう。何せ《存在》は無と無限の裂け目を跨ぎ果す特異点の仮初の面なんだから。
――やはり、《存在》は仮初かね? 
――仮初でなけりや、何《もの》も《吾》である事に我慢が出来ぬではないか! 《存在》は《存在》において、《一》=《一》を見事に成し遂げ、此の世ならざる得も言はれぬ恍惚の境地に達するとでも幽かな幽かな幽かな幻想でも抱いてゐたのかね? 
――それぢや、お前がげつぷと言ふこの不愉快極まりない《ざわめき》は何なのかね? この《ざわめき》こそ《存在》が《存在》しちまふ事の苦悶の叫び声ではないのかね? 
――仮にさうだとしてお前に何が出来る? 
――やはり、苦悶の叫び声なんだな……。
――さう。《存在》するにはそれなりの覚悟が必要なのさ。だが、今もつて何《もの》も《吾》が《吾》である事に充足した《存在》として、此の全宇宙史を通じて《存在》なる《もの》が出現した事はない故に、へつ、《吾》が《吾》でしかあり得ぬ地獄での阿鼻叫喚が《ざわめき》となつて此の世に満ちるのさ。しかし、その《吾》といふ名の地獄での阿鼻叫喚は苦悶の末の阿鼻叫喚であつた事はこれまで一度もあつたためしがなく、つまり、地獄の阿鼻叫喚と呼ぶ《もの》の正体は、《吾》が《吾》である事に耽溺した末の《吾》に溺れ行く時の阿鼻叫喚、つまり、性交時の女の喘ぎ声にも似た恍惚の歓声に違ひないのさ。
――歓声? 
――さう。喜びに満ちた《存在》の歓声さ。
――ちえつ、これはまた異な事を言ふ。この不愉快極まりない《ざわめき》が喜びに満ちた歓声だと? 
――性交時の女の喘ぎ声にも似た《吾》が《吾》の快楽に溺れた歓声だから、へつ、尚更、《吾》はこの《ざわめき》が堪らないのさ。惚れた女の恍惚の顔と喘ぎ声は、男を興奮させるが、しかし、その興奮は、また、気色悪さで吐き気を催す感覚と紙一重の違ひでしかなく、つまり、酩酊するのも度が過ぎれば嘔吐を催すといふ事に等しく、女と交合してゐる男は、さて、どれ程恍惚の中に耽溺してゐる《存在》か、否、交合においてのみ死すべき宿命の《存在》たる《吾》といふ名の《地獄》が極楽浄土となつて拓ける――のか? 
――つまり、約めて言へば、この《ざわめき》は恍惚に満ちた《他》の《ざわめき》だと? 
――さうさ。
――すると、《吾》にとつて《他》の恍惚が不愉快極まりないのは、《吾》が《吾》に耽溺するその気色悪さ故にその因があると? 
――当然だらう。特異点では別に《一》=《一》が成り立たうが、成り立たなからうが、どうでもよい事だからな。
――へつ、そりやさうだらう。だが、《一》の《もの》として仮初にも《存在》せざるを得ぬ《吾》なるあらゆる《もの》は、此の世で《一》=《一》となる確率が限りなく零に近いにも拘はらず、《吾》は現世において《吾》=《吾》を欣求せずにはいられぬ故に、ちえつ、《吾》は《吾》に我慢がならず、その挙句に《吾》は《吾》を忌み嫌ふ結果を招くのではないか? 
――逆に尋ねるが、此の《吾》なる《存在》は、此の世に徹頭徹尾《吾》を実在する《もの》として認識したいのだらうか? 
――はて、お前が言ふその実在とはそもそも何の事かね? 
――ふむ。実在か……。つまり、実在とはそもそも仮初の《存在》に過ぎぬと思ふのかい? 
――当然だらう。
――当然? 
――所詮、《存在》は、ちえつ、詰まる所、確率へと集約されてしまふしかない《もの》だからね。
――やはり、《一》=《一》は泡沫の夢……か。
――さうさ。《一》すらも、へつ、《一》が複素数ならば、複素数としての仮面を被つた《一》の面は、±∞×iといふ虚部の仮面をも被つた《存在》として此の世に現はれなければをかしいんだぜ。
――へつ、さうだとすると? 
――しかし、……、虚数単位をiとすると、±∞×iは、さて、虚数と言へるのかね? 
――∞×iが虚数かどうかに如何程の意味があるのかね? しかし、残念ながら±∞×iもまた虚数な筈だぜ。
――つまり、±∞×iが虚数だとすると、実在は、即ち、《存在》は必ず複素数として此の世に《存在》する事を強ひられる以上、その《存在》は必ず不確定でなければならぬ事態になるが、へつ、その不確定、つまり、曖昧模糊とした《吾》として、この《吾》なる《存在》は堪へられるのかね? 
――だから、《吾》が《吾》を呑み込む時にげつぷが、若しくは恍惚の喘ぎ声がどうしても出ちまふのさ。
――くきいんんんんん――。
 再び、彼の耳を劈く不快極まりない《ざわめき》が何処とも知れぬ何処かからか聞こえて来たのであつた。
――すると、《一》は一時も《一》として確定される事はないといふ事だね? 
――ああ、さうさ。
――しかし、ある局面では《一》は《一》であらねばならぬのもまた事実だ。違ふかね? 
――さあ、それは解からぬが、しかし、《存在》しちまつた《もの》はそれが何であれ、此の世に恰も実在するが如くに《存在》する術、ちえつ、つまり《インチキ》を賦与されてゐるのは間違ひない。
――ちえつ、所詮、実在と《存在》は未来永劫に亙つて一致する愉悦の時はあり得ぬのか――。
――それでも、《吾》も《他》も、つまり、此の世の森羅万象は《存在》する。さて、この難問をお前は何とするのかね? 
――後は野となれ山となれつてか――。つまり、《他》によつて観測の対象になり下がつてしまふ《吾》のみが、此の世の或る時点で確定した《吾》として実在若しくは《存在》するかの如き《インチキ》の末にしか《吾》が《吾》だといふ根拠が、そもそも此の世には《存在》しない、ちえつ、忌忌しい事だがね。
――だから、《存在》は皆《ざわめく》のさ。
――つまり、《一》者である事を《他》の観測によつて強要される《吾》は、《一》でありながら、其処には《零》といふ《存在》の在り方すら暗示するのだが、《一》者である事を強要される《他》における《吾》は、しかし、《吾》自身が《吾》を確定しようとすると、どうしても《吾》は−∞から+∞の間を大揺れに揺れる或る振動体としてしか把握出来ぬ、換言すれば、此の世に《存在》するとは絶えず±∞へと発散する《渾沌》に《存在》は曝されてゐる、儚い《存在》としてしか、ちえつ、実在出来ぬとすると、へつ、《存在》とはそもそも哀しい《もの》だね。
――くきいんんんんん――。
――だからどうしたと言ふのかね? へつ、哀しい《もの》だからと言つて、その哀しさを拭う為に直ちにお前はその哀しい《もの》として《存在》する事を已められるかね? 
――へつ、已められる訳がなからうが――。
――土台、《吾》とは何処まで行つても《吾》によつて仮想若しくは仮象された《吾》以上にも以下にもなれぬ、しかし、《他》が厳然と《存在》する故に、《吾》は《他》によつて観察された《吾》である事を自然の摂理として受け入れる外ない矛盾! 嗚呼。
――それ故、男は女を、女は男を、換言すれば、陰は陽を、陽は陰を求めざるを得ぬといふ事かね? 
――さう。男女の交合が悦楽の中に溺れるが如き《もの》なのは、《吾》が《吾》であつて、而も、《吾》である事からほんの一寸でも解放されたかの如き錯覚を、《吾》は男女の交合のえも言へぬ悦楽の中に見出す愚行を、へつ、何時迄経つても已められぬのだ。哀しい哉、この《存在》といふ《もの》は――。
――へつ、男女の交合の時の愉悦? さて、そんな《もの》が、実際のところ、《吾》にも《他》にもあるのかね? 
――多分、ほんの一時はある筈さ。それも阿片の如き《もの》としてな。また、チベツト仏教では男女の交合は否定されるどころか、全的に肯定されてゐて、男女間の交合は悟りの境地の入り口でもある。
――つまり、男女の交合時、《吾》と《他》は限りなく《一》者へと漸近的に近付きながら、《吾》と《他》のその《一》が交はる、つまり、《一》ではない崇高な何かへと限りなく漸近すると? 
――へつ、此の世に《一》を脱するかの如き仮象に溺れる愉悦が無ければ、《存在》は己の《存在》するといふ屈辱には堪へ切れぬ《もの》なのかもしれぬな。
――だから、《吾》は《吾》を呑み込む時、不快なげつぷを出さざるを得ぬのさ。
――はて、一つ尋ねるが、男女の交合の時、その《存在》は不快なげつぷを出すのかね? 
――喘ぎはするが、げつぷはせぬといふのが大方の見方だらう。だがな……。
――しかし、仮に男女の交合時が此の世の一番の自同律の不快を体現してゐると定義出来たならばお前はどうする? 
――ふつふつ。さうさ。男女の交合時が此の世の一番の自同律の不快の体現だ。
――つまり、男女の交合時、男女も共に存在し交合に耽るのだが、詰まる所、男女の交合は、交合時にその男女は己の《吾》といふ底知れぬ陥穽に自由落下するのだが、結局のところ、《他》が自由落下する《吾》を掬ひ取つてくれるといふ、ちえつ、何たる愚劣! その愉悦に、つまり、一対一として、《吾》が此の世では、やはり、徹頭徹尾、《吾》といふ独りの《もの》でしかない事を否が応でも味ははなければならぬ。その不快を、《吾》は忘却するが如く男女の交合に、己の快楽を求め、交合に無我夢中になつて励むのが常であるが、それつて、詰まる所、自同律からの逃避でしかないのぢやないかね? 
――つまり、男女の交合とは、仮初にも《吾》と《他》との《重ね合はせ》といふ、此の世でない彼の世への入り口にも似た《存在》に等しく与へられし錯覚といふ事か――。
――くきいんんんんん――。
――でなければ、此の世を蔽ひ尽くすこの不快極まりない《ざわめき》を何とする? 
――それでは一つ尋ねるが、男の生殖器を受け入れた女が交合時悲鳴にも似た快楽に耽る喘ぎ声を口にするのもまた自同律の不快故にと思ふかね? 
――さうさ。男の生殖器すら呑み込む女たる雌は、男たる雄には到底計り知れぬ自同律の不快の深さにある筈さ。
――筈さ? ちえつ、すると、お前にも男女の交合の何たるかは未だ解かりかねるといふ事ぢやないかい? 
――当然だらう。現時点で《吾》は《死》してゐないのだから、当然、正覚する筈も無く、全てにおいて断言出来ぬ、《一》ならざる《存在》なのだからな。
――しかし、生物は《性》と引き換へにか、《死》と引き換へにかは解からぬが、何故《死》すべき《存在》を《性》と引き換へに選択したんだらう? 
――それは簡単だらう。つまり、《死》と引き換へに《性》を選び、《死》すべき《存在》を選ばざるを得なかつたのさ。それ以前に、《存在》とは《死》と隣り合はせとしてしか此の世に《存在》する事を許されぬのではないかね? 
――くきいんんんんん――。
――それはまた何故? 
――約めて言へば種の存続の為さ。
――ちえつ、つまり、種が存続するには個たる《存在》は《死》すべき《もの》として此の世に《存在》する事を許された哀れな《存在》でしかないのさ。
――だが、その哀れな《存在》で構はぬではないか。
――ああ。不死なる《存在》が仮に《存在》したとしてもそれはまた自同律の不快を未来永劫に亙つて味はひ尽くす悲哀! 
――それを「《吾》、然り!」と受け入れてこその《存在》ぢやないのかね? 
――ふつ、「《吾》、然り!」か……。しかし、《吾》は気分屋だぜ。
――だから「《吾》、然り!」なのさ。
――つまり、《存在》は、即ち森羅万象は、全て「《吾》、然り!」と呪文を唱へてやつと生き延びるか――。
――例へば《存在》が《吾》を未来へと運ぶ、若しくはRelayする《もの》だとしたならば?
――ふつ、つまり、DNAが《存在》を、否、《私》なる自意識を未来へ運ぶ乗り物と看做す、へつ、一つの「見識」ある考へ方を持ち出して、仮初の《合理》を得ると言ふ、つまり、現代の迷信にもなり兼ねない《科学》的なる《もの》を持ち出す馬鹿馬鹿しい話をしたいのかい?
――馬鹿な話? 何故に馬鹿な話と断定できるのかね?
――《科学》は絶えず時代遅れの概念になつちまふからさ。
――例へばここで「クオリア」といふ《もの》を持ち出して、人間の感覚、または、統覚について何かを語る事がすでに時代遅れと言ふのかね?
――さうさ。《科学》的なる思考は、若しくは概念は絶えず《更新》されるべく《存在》してゐるからさ。
――つまり、《存在》を意識する《吾》もまた「クオリア」だとして、その《吾》といふ《もの》が、仮初にも《科学》を受け入れるならば、《吾》なる《もの》、その《吾》といふ「クオリア」もまた絶えず《更新》されてゐると?
――違ふかね?
――さうすると、《吾》は《吾》によつて絶えず乗り越えられるといふ思考は、下らぬ自己満足でしかないといふ事か……。
――さうさ。「クオリア」を《吾》が《吾》に対する表象と同義語と看做すならばだ、《吾》なる《もの》はそれが何であれ「《吾》、然り!」と全的に自己肯定して此の世界を闊歩するのが一番さ。
――絶えずこの世界を《肯定》せよか――。
――然しながら、それが出来ぬのが《存在》のもどかしさではないかね?
――くきいんんんんん――。
――ちえつ、厭な《ざわめき》だぜ――。
――ここで謎謎だ。「絶えず虐められながら、また、その《存在》をこれでもかこれでもかと否定し続けられつつも、その《存在》は《存在》する事を痩せ我慢してでも《存在》する事を強ひられる《もの》とは」何だと思ふ?
――ちえつ、下らぬ。
――さう、下らぬ《もの》からお前はこれまで一度も遁れられた事はないのだぜ。そら、何だ?
――くつ、答へは簡単「《吾》」だ!
――ご名答!
――だから何だといふのかね?
――つまり、此の世の森羅万象は、ひと度《存在》しちまふと、最早それから遁れられぬ宿命にある。
――だから?
――だから、《吾》もまた《科学》と同様に絶えず乗り越えられる《存在》なのさ。
――くきいんんんんん――。
――それは逃げ口上ぢやないかね?
――逃げ口上? 何処がかね?
――つまり、《吾》も《科学》も「先験的」に乗り越えられねばならぬ《もの》と規定してゐる処が、そもそもその《吾》が《吾》と名指してゐる《もの》からの遁走ぢやないのかね?
――ふつふつふつ。それは《吾》の幻想でしかない!
――つまり、「ごつこ」遊びと同じといふ事かね?
――さう。《吾》は絶えず「《吾》ごつこ」をする様に仕組まれてゐるのさ。
――しかし、現実においても《吾》が《存在》する以上、「ごつこ」では済まないのと違ふかね?
――さうさ。しかし、現実においても《吾》の事を自ら名指して「《吾》ごつこ」を無理矢理《吾》と見立ててゐる勘違ひした《存在》のなんと多い事か、ちえつ!
――ちよつ、待て! 《吾》は絶えず《更新》され其処から遁走する事を仕組まれた《存在》ならば、絶えず「《吾》ごつこ」、つまり、仮象の《吾》をのつぴきなぬ故にでつち上げざるを得ずにその仮象の《吾》を以てして《吾》は《吾》から絶えず遁走する術として「先験的」に仕向けられてゐるのぢやないかね?
――ふつ、さうさ。その通りだ。
――つかぬ事を訊くが、《吾》とはそもそもからして《更新》される《もの》として如何にして規定出来るのかね? つまり、《更新》される《吾》こそ見果てぬ夢の類でしかないのぢやないかね?
――つまり、《更新》される《吾》とは《吾》に関する進歩主義的な、ちえつ、何と言つたらいいのか、つまり、《吾》とは絶えず《更新》してゐる《もの》と看做す事で自己陶酔に溺れる。
――それで?
――つまり、《吾》は《更新》されるのぢやなく、唯、《変容》してゐる、否、《変容》する《吾》を夢見てゐるに過ぎぬのぢやないかね?
――だとして、何かご不満でも?
――いや、何、《吾》とは、哀しき哉、《吾》に忌避され、また、《吾》自身に追ひ詰められる堂堂巡りを未来永劫に亙つて繰り返されるのみの、夢幻空花なる幻でしかないのぢやないかね?
――だからどうしたと言ふのか! そもそも《吾》なる《もの》が《吾》を問ふ事自体、数学の再帰関数のやうなもので、《吾》の基底の値が決定されれば、その《吾》といふ再帰関数はたちどころに解けてしまふ代物ぢやないのかね?
――へつ、《吾》の基底の値が《存在》するか如くに絶滅せずに『汝自身を知れ!』と何時の時代でも問ひ続けて来た一種族が人間ぢやないのかね?
――くきいんんんんん――。
 と、またしても深い極まりない耳障りな《ざわめき》が彼の耳を劈くのであつた。暫く彼は黙してその不快な《ざわめき》が消えるのを待つて、そして、かう自身の《異形の吾》に吐き捨てるやうに言つたのであつた。
――ちえつ、厭な耳鳴りだぜ。
――ふつふつふつ。これは此の世の森羅万象がひそひそ話をして、そして、吾等の対話の行く末に聞き耳を欹ててゐるクオリアがこの耳障りな《ざわめき》の正体かもしれないぜ。
――何を今更。お前は、この《ざわめき》は《吾》が《吾》を呑み込んだ時の《げつぷ》だと先に言つた筈だかね?
――だから尚更この《ざわめき》は、此の世に《存在》すべく強要された《存在》共達の、『《吾》は何処?』『《吾》は何?』といふ恰も迷子の幼児が泣き喚く様に似た切実な問ひでもあるのさ。
――何を言つてゐるのかね? 一体全体お前は何を言つてゐるのかね? 俺にはお前の言つてゐる事が全く理解出来ぬのだがね?
――つまり、《吾》は《吾》を呑み込む事で《吾》を《更新》させ、或ひは《吾》と《吾》との差異が《げつぷ》となつて発せられる事で生じる《吾》の《変容》にぢつと我慢し、この不快極まりない《吾》が《吾》である事の事実を、或る時は忌避し、或る時は追ひ詰めて、絶えず《吾》は《吾》といふ鬼を探す鬼ごつこに夢中な幼児の如く、つまり、《存在》の幼子でしかないのさ。
――《存在》の幼子とは一体全体何の事かね?
――つまり、《存在》はそれが何であれ《吾》といふ《もの》を探す青臭い《存在》といふ意味さ。
――つまり、《吾》は何時まで経つても成熟しないといふ事かね?
――否。《吾》は何度も成熟、否、爛熟したが、その《吾》はさうなると死臭を漂はせ、己の内部から腐乱して行くのさ。そして、その爛熟した《吾》は其処で死滅するのさ。つまり、成熟、若しくは爛熟した《吾》は、その《吾》が《存在》したとしても既に絶滅する外ない代物で、一方で、何とも青臭い思惟形式を持つた《吾》のみが『《吾》然り!』と言へずにその種を存続させ、後裔に《吾》探索を託すのさ。それ故に、青臭い《存在》のみが此の世に生き残つてゐる。
――ふむ。すると、《吾》が《吾》である事を『《吾》然り!』と歓声を上げて、その歓びを知つてしまつた《吾》は既に成熟してゐる故に、其処で種は残せず、その成熟した種は知らぬ内に内部腐乱を起こしていて息絶えるといふ事か――。
――くきいんんんんん――。
――種が存続するには、その種はまだ《変容》出来る余地のある青臭い《存在》でなければならないのさ、此の世の摂理は、へつ。
――つまり、青臭い未成年のやうな《存在》は、《変容》出来る伸び代がある故に、また、青臭い《存在》は寂滅するのに未練たらたらで入滅する故に、青臭い《存在》は、種を残せたのだか、《吾》が何なのか大悟してしまつた正覚者のやうな《存在》は、種を残す事すら、その必然性から既に脱落してゐる故に、只管、《吾》の腐乱をそのまま止める事なくぢつと黙して味はひ尽くす境地に至つてゐるといふのが、此の世の摂理かね? それつて、つまり、大悟した正覚者とは理性の奴隷の事ではないのかね?
――さて、理性的なる大人物は、正覚者と言へるのか、といふ問題が其処には横たはつてゐるのだが、私の私見を言へば、理性的な大人物とは《神》との契約の末に《神》の下僕に為り得た《存在》でしかなく、《神》無しの正覚者とは、その根本がそもそも違つてゐるやうな気がする。つまり、理性といふ《もの》が既に《神》の《存在》を所与の《もの》としてゐるのさ。
――くきいんんんんん――。
――ちえつ、また何処かで《吾》が《吾》を呑み込んで不快な《げつぷ》を放つたぜ。
――此の世に《存在》が《存在》する以上、この不快な自同律の齟齬を来たした《げつぷ》はなくならないぜ。
――つまり、此の世は《存在》の《げつぷ》、それを換言すれば、《存在》の呻吟に満ち満ちてゐる、ちえつ、不快極まりない不協和音に満ちてゐるといふ事か。
――絶えず、《存在》は《吾》に為りたくて仕様がないのだが、その《吾》は絶えず、《存在》から零れ落ちてゐるといふ、未来永劫に続く《吾》を追ふ「鬼ごつこ」をするだけで、その一生、つまり、《存在》が《存在》であり続ける閉ぢた時空間で、《吾》なる事を此の世の森羅万象は、ぢつとその不快を噛み締めてゐるのさ。
――ならば、大悟した正覚者はこの不快な《ざわめき》を何とする?
――別に何ともしない。正覚者は、この不快な《ざわめき》すらに此の世の法を見、そして、菩薩となつて、その慈悲に満ちた心で衆生を《吾》の安寧の地へと導くのさ。
――つまり、菩薩は此の世の森羅万象の懊悩を独りで背負ふ、逆Pyramidの階級社会のその底に安住の地を見出した、例へばドストエフスキイの大審問官に等しい《存在》かね。
――否。菩薩は、この自然、否、諸行無常なる世界を全的に肯定出来てしまつた哀しき《存在》なのさ。
――菩薩が、哀しい? これは異な事を言ふ。菩薩は愉悦に満ちた《存在》ではないのか?
――否。懊悩の陥穽の底無しの深淵に自ら飛び込んで、それまで懊悩の相であつた《もの》が、或る刹那、突然、相転移を起こし、愉悦、つまり、懊悩即愉悦の秘法を手にした選民の事をお前は大審問官と言つたのだらうが、菩薩が深い懊悩にあるのは火を見るよりも明らかだ。千里眼といふ言葉があるだらう。つまり、菩薩といふ《もの》は何でもその《存在》の《存在》する所以をその千里眼で見通す事が出来る《もの》が菩薩であり、正覚者なのだ。
――見通すだけ? たつたそれだけの事が菩薩の菩薩たる所以? ちえつ、馬鹿らしい。
――それでは尋ねるが、お前は、此の世の何を見通せるのか? 《吾》すらも見通せぬ《もの》が、果たせる哉、何を見通せる?
――つまり、菩薩は《吾》に明るい《存在》といふ事かね?
――否。それぢや、己が《死》すべき宿命にある事を認識する「現存在」に過ぎぬ。
――ならば、そもそも菩薩とは何なのかね?
――此の宇宙が存続する限り、その精神がその時代、その時代の「現存在」、或るひは、森羅万象でも構はぬが、その《存在》によつて精神がRelayされる《念》力を持つた《存在》こそが菩薩さ。
――《念》力? Occult(をカルト)か、へつ。
――ならば、此の宇宙史は何故に存続し続けるのか? つまり、何故に歴史が《存在》するのだ。過去の遺産を受け継がずば、歴史なんぞはそもそも《存在》しないだらう?
 彼は、只管、己の内部に棲まふ《もの》共の他愛のないひそひそ話をそれが為すがままに任せて、ぢつと耳を欹(そばだ)てて聞いてゐたのであつたが、その彼は、時折、気色が悪い薄笑ひを口辺に浮かべて、更に自己の内部の未開の地に棲まふ《もの》を弄(まさぐ)るやうに己の頭蓋内にぬつと仮象の手を伸ばして、その頭蓋内の闇に今もひつそりと身を潜め蹲つたままの未知の己を引き摺り出す事にのみ耽溺してゐるのであつた……。
――歴史とは、《存在》の未練たらたらの《念》によつてRelayされた《もの》によつて、漸く成り立つてゐる羸弱極まりない《もの》に過ぎぬといふのかね?
――《存在》が嘗て此の世に《存在》したんだぜ。その《存在》の《念》がそんな脆い《もの》の筈がなからうが。《念》程、此の世で強力な《もの》はないぜ。
――そして、菩薩かね? ふつ、ちやんちやらをかしい!
――しかし、或る国では死んだ《もの》は大概神的な何かへ昇華するのを何とする?
――しかし、《存在》が死したからと言つて、その《存在》は永劫に完結しない何かなのもまた確かだぜ。
――お前は、《げつぷ》と言ふが、それは《げつぷ》などではさらさらなく、《存在》の呻吟ぢやないかね?
――馬鹿が! 声にすら出来ぬ《もの》が五万と重ね合はさつてゐるからこそ《げつぷ》でしか表現出来ぬのが解からんのか。だから、お前にとつても、否、誰にとつても不快極まりない耳障りな《ざわめき》なのだ。
――つまり、《存在》が永劫に完璧なる《存在》に死しても尚、為り得ぬ故の己に対する齟齬が、この耳障りな《ざわめき》の正体とでも言ふのかね?
――これは散散話して来たが、此の世の森羅万象が、己に対して絶えず、齟齬を来たしてゐる事は、此の世が或る意味健全な事の筈だがね。大悟した正覚者はその《生》を、若しくはその《存在》を内部より爛熟させたが為に種を残す事無く自滅し、腐乱し行くに任せるままに己の死を存分に味はつた《もの》以外、大悟なんぞ出来やしないぜ。多分、大悟した正覚者は、どん底の絶望にある筈の《存在》の澱みを濁り酒を呷るが如く、一滴たりとも遺さずに飲み干した《存在》に違ひなく、しかし、そんな事は森羅万象の何《もの》も未だ為した《もの》はをらぬ筈で、それが出来た《もの》が正覚者に違ひないと思ふがね。つまり、どん底の絶望なんて知らぬが仏が一番いいに越した事はなく、《生》ある《存在》にとつてそれは死臭が漂ふ内部崩壊を齎すしかない危険極まりない毒薬に近しく、その絶望にあるに違ひない《存在》の澱みは、絶えず《存在》に呑まれる事を待ち続け、そして、その毒薬の如き《存在》の絶望で出来た濁り酒を、敢へて呷り大悟する事を渇望する大馬鹿者の出現を絶えず待ち望んでゐるのが此の宇宙ぢやないかね? この《存在》の絶望で出来た澱みは、然しながら、誰彼なく憑依する厄介者と来てゐるから、《存在》は彼方此方で呻吟するのだ。
――え? お前は一体何を語つてゐるのかね? さつき、菩薩は底無しの《存在》に必ず開いてゐる懊悩といふ陥穽へと自ら入水(じゆすい)する如くに投身し、その身を全て《他》に任せ切つた処で、忽然と《世界》は相転移を起こし、懊悩が即愉悦へと変化する極楽浄土が出現するのぢやなかつたつけ。
――それはその通りだが、ならば一つ尋ねるが、お前は菩薩かね?
――うむ。どう見ても違ふな。
――当然さ。その《存在》が菩薩かどうかを決めるのは徹頭徹尾《他》だからね。だから、死に行く《存在》は凄まじき《念》を此の世に未練たらたらに遺して、歴史を絶えず作り続けてゐるのさ。此の《念》は馬鹿には出来ない恐るべき力が秘められた《もの》で、《念》が宿つてゐてその宿主が死んでも此の《念》なる《もの》は死す事はなく、次の宿主を探してそれを見つけたならば、直ちにその《存在》に死すまで憑りついて、己の《存在》を呻吟させて已まないのだ。その結果、《吾》を呑み込む《吾》は、その《吾》に対して其処に《吾》とは決して相容れる事のない齟齬を来たした《吾》を呑み込まなければならず、《吾》たる《存在》は絶えず《げつぷ》を吐き出すのさ。その《げつぷ》が不快な《ざわめき》となつて此の世に遍在し、未来永劫に亙つて《吾》に為れず仕舞ひの怨嗟が絶えず此の世に満ち満ちてゐるからこそ、《吾》は何とか生きて行けるのさ。
――つまり、お前が《念》と言つてゐるのは精神のRelayの事かな?
――或ひはさう看做してもいいのかもしれぬが、しかし、一冊の本に宿る《念》の強靭さは、誰もが味はつてゐるので解かると思ふがね。
――しかし、お前の言ふ《念》は、例へば《生者》に憑依する霊の如き《もの》に思へて仕様がない。
――さうさ。幽霊さ。否、亡霊か。此の世に《死》した《もの》の《存在》を無視する事は一切出来ぬ相談だ。然しながら、《生者》は常に《死者》の思ひを裏切り続けながら日常を生きてゐる場合が殆どだらう。誰も何かをする時に《死者》や未だ生まれ出ぬ《未来人》に思ひを馳せ、それを念頭に置いて何かを行ふ事は皆無だらう。しかし、或る種の《存在》には霊が憑依し、また、未だ生まれ出ぬ《未来人》に思ひを馳せて《吾》を問はずにはゐられぬ《生者》が少ないが確実に《存在》する筈さ。
――だが、霊なのかどうかは知らぬが、《死者》の《念》を引き受けた《生者》がゐるとして、その《念》にもまた、生存競争が確実に《存在》する筈で、その証左に数多の《死者》、そして、未だ生まれ出ぬ《未来人》の《念》は、幾人かの限られた《存在》に象徴され行く。その《念》は、例へば書籍となつて現在に引き継がれてゐるが、それは絶えず《生者》の厳しい目に晒されて、《死者》の《念》は取捨選択されて、例へば、現在、膨大な数の本が出版されてゐるが、そのうち一体何冊が、百年後、千年後に、そのお前が言ふ《念》を残してゐるかどうか高が知れてゐるのぢやないかね?
――哀しい哉、その通りさ。現在の《生者》が全て《死者》になつた時点で、《念》として残るのは、微微たる《もの》だらう。だから、尚一層、残つた《念》は、《生者》への憑依は強烈で、《生者》を覚醒させる起爆剤になるだけの物凄い力を秘めてゐるのさ。だから、現在、読み継がれてゐる作品の《念》はそれはそれは強烈で、絶えず《生者》を鼓舞して已まないのさ。
――成程。それ故に、故人に対する根強い信仰が生まれ、そして、現在を生きる現代人は宗教のために戦争が出来るといふ訳かね? そんな《念》なら滅んだ方がましぢやないかい?
――だが、《生者》は誰も未来を知らない。此処で《個時空》の考へ方を当て嵌めると過去は未来に簡単に反転出来るので、それ故に、故人の生き方に範を求め、そして、《吾》を見出すのさ。
――《死者》の《念》を毒とも良薬とも全く解からずに《生者》はそれを呷るしかないのか――。
――《死者》の強烈な《念》を毒にも良薬にもするのはひとへに《生者》にかかつてゐる筈だがね。
――つまり、基督や仏陀やムハンマドやヤハウエやブラフマー神やヴイシユヌ神やシヴア神などの神仏として祈りの対象になつてゐる少数の《もの》の《念》は、《生者》の心を揺さぶらずにはいられぬ程に強烈で、《生者》はそれら《死者》や《神》の言葉に帰依する事で、不合理極まりない現実を生き続けてゐるとするとだ、《死者》の《念》が取捨選択されるとはいへ、それは、或る象徴的な《死者》の《念》に収斂するが、しかし、その背後には、連綿と数多の人びとに祈り続けられてきたといふ数多の《念》が隠されてゐて、《生者》はさうして残された《死者》の言葉の重みを感じずにはゐられず、それ故に、信仰が生じるといふ事か。ふむ。だが、この不合理極まりない《ざわめき》は一体全体どうした事なのだらうか? もしかすると、《死者》もまた《吾》を探して、その《吾》をごくりと飲み干したいが為に、この不快な《げつぷ》を発してゐるのではないだらうか?
――仮にさうだとしてどうしたといふのかね?
――さうすると、此の世に《吾》は元来《存在》していないのぢやないか? どう思ふ?
――ふつふつ。ぢやあ、お前は、お前の事を《吾》と思はないのかい?
――私は、己の事を半分は《吾》かもしれぬが、残りの半分は《吾》以外の何かで、それは今の処全く解からず仕舞ひで、《吾》は《吾》にとつてこれまで《吾》であつた例がないのが、実際の処だ。
――それは当然だらう。《吾》が全宇宙史を通して確率《一》として《存在》した事はないのだからな。
――それは《神》に対しても当て嵌まる事かね?
――当然だらう。此の世に《存在》しちまつた《もの》全てが、大悟しない以上、《神》もまた下唇をくつと噛んで、地団駄を踏んでゐるに違ひないのさ。ふつ、ところが、《神》と大悟が結び付く事は、全くの誤謬でしかないのさ。なにせ、仏教に《神》はゐないのだからな。
――だから、尚の事、《存在》が《神》と同等に対峙するには大悟する外ないのさ。
――つまり、正覚、若しくは大悟した《もの》は《神》的な《存在》に為り得るとお前は看做してゐるといふ事か。ふつ、馬鹿らしい。それは詰まる所、《神》といふ《有》と正覚、若しくは大悟の《無》との対決に終始し、その有様は誰もが虚しい《もの》だといふ事を予想出来る下らぬ代物だぜ。
――果たして、さうなのかね? 《有》と《無》の対峙なんて、此の宇宙が《存在》する限り絶対にあり得ぬ筈だがね。
――つまり、或る《存在》が大悟し《神》と対峙した場合、此の宇宙誕生前、若しくは此の宇宙の死滅後の何かを垣間見する事が可能に為り得るといふ事かね?
――それは例へば物質と反物質とが出合ひ、発光して消滅するやうに、此の世ならぬ位相で、ぱつと光を発するが如くに一瞬にして《有》と《無》との対峙が終はり、そして何かを生んでしまふ端緒に違ひないのさ。
――何を馬鹿な! 現に《有》と《無》は此の世に確かに《存在》し、だからと言つて《有》と《無》が出合つた処で何にも生まれやしないぜ。それはお前のみのお目出度い独断だらう?
――ああ、さうさ。しかし、此の世の《存在》、つまり、此の世の森羅万象は、《無》の様相も包有してゐるのは間違ひないだらう?
――《無》ねえ。それはむしろ《虚》ではないかね?
――《虚》か。ふむ。因みに虚数i×零は零かね?
――零だ。
――つまり、それらの事から導き出される事は、《虚》対《無》といふ事象が此の世に起こり得るならば、未だ《存在》には人知を超えた事象が含まれてゐるといふ事かね。
――多分、《有》対《無》も、《無》対《虚》も、《有》対《虚》も、《存在》次第で如何様にでも変はる事象に違ひない。事象が如何様にも変はる故に《吾》は厳然と此の世に《存在》するのと違ふかね?
――つまり、《吾》の《存在》が《有》、《無》、《虚》の事象を此の世に生滅させてゐると?
――さう考へるのが自然だらう?
――ふむ。自然ね。その《自然》といふ概念が《存在》の陥穽と違ふかね? 最後の処で、《存在》は必ずと言つて言ひ程《自然》を持ち出すが、詰まる所、お前は《自然》といふ概念はあらゆる《もの》が道理に適つてゐる状態と考へての事かね?
――さあ、解からぬ。
――解からぬ? ふつ、それぢや、お前は、何も解からずに《自然》なる言葉を持ち出したのかね? ふつ、如何にも「現存在」たるお前らしい物言ひだな。ならば、一例として私の考へを直截的に言へば、《自然》程不合理極まりない《もの》はない!
――何故に?
――現にお前は己の《存在》に疑念を抱いてゐる。それ程不合理な事はないだらう?
――ふつ、《吾》が《吾》を取り逃がす、此の世の理……つまり、《自然》が不合理極まりないか。それはその通りに違ひないが、《存在》は森羅万象、《自然》である事を渇望してゐるが、それを成し遂げた《存在》が、例へば人間以外の動植物であるとは看做せないかね?
――否、人間以外の動植物も決して《自然》であつた事はなく、これからも《自然》である筈がない。
――何故、人間以外の動植物が《自然》でないのかね? ならば、《自然》とは何なのかね?
――つまり、《自然》とは《存在》が《存在》でなくなる理とでも言つておくかな。これならば人間以外の動植物も《自然》とは無縁な《存在》と言ふ事になるだらう。
――《存在》が《存在》でなくなる理が《自然》ならば、それは《死》の事ではないのかね?
――ふつふつふつ、ならば《死》が《自然》と言ふ事でいいだらう? 何か不満でも?
――ならば《生》は何なのかね?
――簡単さ。《不自然》さ。
――馬鹿らしい! 《生》が《不自然》な筈はなからう。
――さて、その根拠は?
――現に私は此の世に生きてゐるからさ。
――高がそれだけの理由で《生》が《自然》な事と看做してゐるのかね? それでは一つ尋ねるが、何故に《生》なる《存在》はいとも簡単に《死》ぬのかね? 《生》である事が、特別な事だとは思はなぬのか! へつ、それは《生者》の傲慢といふ《もの》だぜ。だからお前には此の世に充謐してゐる《ざわめき》を耳障りな《もの》としてしか聞こえやしないのさ。少し耳を澄ましてみれば解かる筈だが、《有》、《無》、《虚》のげつぷたる此の世の《ざわめき》の一つ一つに喜怒哀楽が充謐してゐる事が解かる筈だがね。それが詰まる所、《存在》の《念》といふ《もの》だらう?
――つまり、お前は《念》といふ《もの》を情動の一種と看做してゐるのかい?
――それは、《念》に憑りつかれた《もの》が決めればいい事さ。
――へつ、お前もまた、《吾》といふ《念》が憑りつゐた《存在》だらう? ならばお前は《念》を何と看做してゐるのかね?
――《生》の起動力さ。
――ぶはつ。《生》の起動力と来たもんだ! 何を甘つちよろい事をほざいてゐるのかね?
――ならば逆に尋ねるが、お前は、この《ざわめき》、若しくは《念》を何と看做してゐるといふのかね?
――へつ、《死》の起因さ。
――はて、それは裏を返せば《生》の起動力と同じ事ぢやないのかね? つまり、《生》とは絶えず《死》へ向かつてまつしぐらに進む《もの》だらう?
――だが、此の世は、《生者》に比べれば、《死者》と未だ出現せざる未出現の《未来者》の方が圧倒的な数で、《生者》は多勢に無勢で、《死》の、若しくは《未来》の論理によつてのみ現在を生きてゐるのぢやないかね?
――成程。《生》は《死》、若しくは《未来》の理で《存在》し、そして、呻吟し、《存在》は声為らざる《ざわめき》を発してゐるといふ事か。
――つまり、《生》が《死》、若しくは《未来》の理に律せられてゐるといふ事は、《過去》に《死》した《もの》の理に従つてゐるといふ事で、つまり、《生》は、《過去》と《未来》の「間」に《存在》する《もの》で、それが故に呻吟せずにはをれず、絶えず《吾》を呑み込む不合理を為す事で、此の世はそんな呻吟の《ざわめき》に満ち満ちてゐるのではないのかね?
――その考へ方が既に使ひ古された古く黴臭い思考法なのが気が付かぬのか。時間は決して一次元の《もの》ぢやないぜ。何度も言ふが《個時空》の考へを持ち出せば、時間もまた、否、時空間もまた∞次元でしかその本当の姿形を現はしやしないぜ。
――すると、此の世の《ざわめき》もまた∞次元で或る言語として立ち現はれるといふのかね?
――ああ。
――それぢや、此の世といふのは、∞次元へと至る為の跳躍板、つまり、未出現の∞次元の《世界》の礎へとなる単なる「過程」に過ぎぬといふ事かね?
――当然だらう? そもそも《未来》は《過去》に、《過去》が《未来》に簡単に一変する此の世の理は、《未来》と《過去》がくんずほぐれず諸行無常を演出してゐるのさ。
――しかし、さうとはいへ、此の世に《存在》しちまつた《もの》は、《存在》したが故にそれに対して理路整然とした理を求めずにはをれぬのぢやないかね?
――では、一つ尋ねるが、《存在》、ちえつ、それを《生》と言ひ換へれば、《生者》は《生者》の理をうんうん唸りながら捻出出来れば、《生者》はそれで満足すると思ふかい?
――否。
――ならば、《存在》は此の世の理、つまり、諸行無常に身を任せるのが一番理に適つてゐるだらう。
――さうかね? 実際の処、《存在》は諸行無常に身を任せたがつてゐると思ふかい?
――ふむ。
――《存在》が最も嫌悪してゐるのが諸行無常だらう?
――ふむ。さうさねえ。《存在》は諸行無常を嫌悪してゐる……か。つまり、それは、《存在》は常に《現在》に留め置かれてゐる事が我慢ならぬといふ事だらう? そして、それは森羅万象、皆、同じ筈だぜ。森羅万象が全て《現在》に留め置かれる故に諸行無常の世が生じてゐるのではないかね?
――《存在》が留め置かれるからと言つて《現在》は、しかし、止まつてやしない筈たぜ。或る《存在》が言ふ《現在》は、《他》にとつては《未来》か《過去》なのは《個時空》を持ち出せば解かるだらう? しかし、《吾》にとつては常に《吾》は《現在》に留め置かれ、そして、《吾》にとつては交換可能な外界の《未来》と《過去》から隔離されてゐる。
――否! 《存在》は成程、《現在》に留め置かれてゐるが、しかし、その内界では《未来》へも《過去》へも自在に行き来してゐるぜ。
――つまり、頭蓋内の脳といふ構造をした《五蘊場》では因果律は壊れてゐると?
――否、自在なだけさ。別に因果律は壊れちやいない。その証左に《存在》は絶えず《現在》にあるぢやないか。
――だから、《存在》は《ざわめく》のだらう? 「何故に《吾》は《現在》にあらねばならぬのか?」と。
――それさ。それ故に《吾》は《吾》をごくりと呑み込んで、《吾》が《吾》に齟齬を来たしてゐる故に、《五蘊場》に犇く《異形の吾》共が、一斉に《ざわめく》のさ。何故つて、《吾》が《吾》である事を強ひられる事程、《存在》が忌避してゐる事はないからね。とはいへ、《吾》は《吾》として《現在》に留め置かれる。其処で一つ尋ねるが、《現在》に留め置かれる宿命にある《存在》は、何故に《吾》なのかね?
――何を今更。それは今まで散散話して来ただらう。
――といふと?
――つまり、《吾》が《吾》として《現在》に留め置かれる事は、詰まる所、「単独者」、若しくは《孤》として《存在》する《吾》足る事を、《吾》の魂に刻み込む儀式なのさ。さうして、《吾》を魂に刻み込む際、それは《吾》を悶絶させる苦痛で《吾》は《ざわめく》外ないのさ。
――くきいんんんんん――。
――この耳障りな《ざわめき》は《吾》が《吾》を呑み込んだ時のげつぷではなかつたのぢやないかね?
――さうさ。げつぷさ。
――それでは一つ尋ねるが、《五蘊場》は《存在》全てに賦与されてゐる《もの》なのかね?
――勿論。「現存在」では脳といふ構造をしてゐるが、意識が宿る《場》があれば、其処はもう《五蘊場》なのさ。
――すると、この耳障りな《ざわめき》と《五蘊場》との関係は如何様な《もの》なのかね?
――ふつ。つまり、《吾》が《吾》を呑み込んだならば、《五蘊場》を根城に《存在》全体に犇く《異形の吾》共、つまり、去来(こらい)現(げん)を自在に行き交ふ《異形の吾》共は、その呑み込まれた《吾》を喰らふ為に群がり、さうして、《吾》をすつかり喰らつた時に、《異形の吾》共は満腹の態でげつぷを彼方此方で発するのさ。そのげつぷは当然、《吾》には堪へ難い《もの》で、そのげつぷが耳障りがいい筈がないぢやないか!
――すると、《吾》とは、そもそも《異形の吾》共の餌かね?
――さうさ。お前は《吾》を一体何だと思つてゐたんだい? まさか、《存在》を支配下に置く「理性」と「悟性」を統覚した何かだとでも夢見てゐたんぢやないだらうな?
――《吾》が《現在》の主ではなくて、《存在》は何だといふのかね? 先にお前は《存在》には《念》が宿ると言つた筈だが、その《念》こそ《吾》の正体ではないのかね?
――さうだとしたならば?
――つまり、《吾》は《吾》といふ《念》を絶えず呑み込む事で《五蘊場》に棲息する《異形の吾》共に《吾》といふ餌を与へて飼ひ馴らしてゐるといふ事か。――ふつ。その《異形の吾》共を飼い馴らしてゐる《もの》とは一体何かね?
――当然、《吾》さ。
――それぢや、全く矛盾してゐるぢやないかね?
――矛盾で結構ぢやないか。ふはつはつはつはつ。
――それぢや、主従関係が転倒してゐるぜ。つまり、《吾》は《吾》といふ《念》を呑み込む苦行を断行せざるを得ぬ故に、《吾》とその呑み込んだ《吾》といふ《念》は齟齬を来たし、それにもかかはらず、その《異形の吾》共の生贄として、否、人身御供として《吾》を捧げ、その《異形の吾》共の餌でしかない《吾》が、一方では、《異形の吾》共の主と来てゐる。一体全体お前が言ふ《吾》と《異形の吾》とは何なのかね?
――実在する化け物――かな。
――ぶはつ。《吾》が化け物かね? 《異形の吾》共が化け物かね?
――しかし、どちらも《吾》といふ《念》を喰らひ、或るひは無理矢理呑み込んでゐる。
――つまり、《念》は無尽蔵といふ事かね? 馬鹿らしい!
――《吾》が、《念》においてのみ《吾》からの出入りが自由としたならば?
――《吾》からの出入りが自由? それは魂が憧れ出るといふ事かね?
――さう。源氏物語の世界だ。そして、《吾》といふ《念》は、一人称であり、二人称であり、三人称であり、四人称であり、五人称である、云々、としたならば?
――何を言つてゐるのか解かつてゐるのかい? 四人称、五人称など想像出来る代物ではないぢやないか。
――さうかね。時間を自在に行き交ふ、つまり、∞の時間次元を自在に移動可能な《もの》を四人称、そして、《孤》=《全体》といふ曲芸が出来ちまふのが五人称と、色色と想像出来るもんだぜ。
――何を! 時間を自在に行き交ふのは単に記憶を辿り、或るひは、『ああなりたい』といふ未来の《吾》を想像する、いづれにしても単に《吾》の夢想でしかなく、また、《孤》=《全体》とは、現代のIT社会では既に実現された仮想空間の事でしかないのぢやないかね?
――ほらほら、四人称、五人称といふ言葉を表白した途端に様様な思索が渦巻く様相を呈してきたぢやないか。
――それがどうしたといふのかね?
――初めにLogosあり。
――ふつ、創世記かね? つまり、言葉が生まれると、それに派生する思索が山のやうに連なつて来るだらう?
――否。その現象が元元《存在》してゐた《もの》に言葉を与へるだけで、頭蓋内の闇でずつと眠り続けた或る《もの》がむくりとその頭を擡げ、そいつが、頭蓋内の闇で黙考を始める。つまり、《異形の吾》共の親玉が、不意と思考を始めるのだ。さうすると《吾》といふ《念》は歓喜する。
――歓喜かね? 懊悩と違ふのぢやないかね?
――どちらでも結構ぢやないか。《異形の吾》共の親玉が目覚めその頭を擡げたのだからな。そして《異形の吾》共の親玉が目覚めると、一息で《異形の吾》共を呑み込んで『ぶはつはつはつはつ』と高らかに哄笑する。
――つまり、対自の出現かね?
――否。《異形の吾》だ。そして、《吾》は自問自答をその《異形の吾》の親玉と始め、《吾》はその魅惑に幻惑され、その対話から一時も離れられなくなる、《吾》は最早其処から遁れる事が出来ない程に、《異形の吾》との対話を蜿蜒と繰り広げる事に為る。
――それは暇人のやる事だ。多くの《存在》にはそんな暇などないのが実情だぜ。
――ところが、一度《異形の吾》共の親玉がその頭を擡げ、《異形の吾》共を一飲みすると「げつぷ」をするのだ。
――また「げつぷ」ね。
――その「げつぷ」が《吾》の魂を揺さぶつて仕方がない。さうなると、《吾》は《異形の吾》の親玉とさしで話をせずにはをれぬのだ。
――そして、その《異形の吾》の親玉は《吾》をも呑み込むのだらう?
――ああ。《吾》も一飲みで呑み込まれる。そして、《異形の吾》の親玉は、「げつぷ」でなく、哀しい「しやつくり」を始めるのだ。
――「げつぷ」に飽き足らず今度は「しやつくり」かね? しやつくりを始めた《異形の吾》は、若しくは《吾》は、不快でならぬだらう?
――さう。不快だ。《吾》が《吾》に抱く此の不快は、果たせる哉、《生》の起動力なんだぜ。
――《生》の起動力? つまり、それは、《吾》といふ《存在》の根源の処に、《吾》に対する不快が必ず《存在》し、《吾》に対する不快なくしては、此の諸行無常の《世界》では生きられぬといふ事だね? それが変容の受容なんだね?
――此の世はそんなに甘く出来ちやゐないぜ。唯、《吾》の根源に不快といふ感情が《存在》する故に、《吾》は、時時刻刻と変容する《世界》で《生》を繋いで行けるのさ。
――つまり、《吾》は《吾》の変容を甘受出来る《もの》なのだらう?
――否。その逆さ。時時刻刻と変容する諸行無常の《世界》において、《吾》のみが未だに《吾》である事のどうしやうもない不快に、《吾》は《吾》に、若しくは《異形の吾》共に我慢する為に《吾》は《吾》を呑み込み、そしてげつぷをする。そして、げつぷがこじれて、それは仕舞ひにはしやつくりとなる。
――くきいんんんんん――。
――では、そのしやつくりは《吾》にとつて何なのかね?
――《吾》が《吾》である事の悪足掻きさ。そして、その《吾》の齟齬は、《吾》も《異形の吾》共も甘受するしか術がないのさ。
――何の術かね?
――存続さ。
――別段、《吾》も《異形の吾》共も存続する必然はない筈だぜ。
――しかし、《吾》も《異形の吾》も自滅出来やしない。唯、《世界》が戦争状態とか自然が凶暴な牙を剥いてゐるとかいふ極限状態の《世界》においては別だがね。そんな状況下では《吾》は只管《生》を望む。
――《世界》に《死》の確率が増すと、それに反比例するやうに《吾》は《生》を求めるこの事象を何とする?
――何、さう言ふ極限状態は《吾》の内部では日常茶飯事の事でしかないさ。つまり、さういふ極限状態の《世界》に置かれた《吾》は、絶えず、内部で執り行はれてゐる《吾》を呑み込むと言ふ荒行が、外部に現実の《もの》として表出したと《吾》は本能的に感じて、《吾》は《吾》の存続を只管欣求するのさ。つまり、極限状態の《世界》に置かれる《吾》とは内外が反転したに過ぎぬのだ。
――さうすると、《吾》とは何時も自死の崖つぷちにゐるといふ事かね?
――さうさ。そして、その崖つぷちの底を覗き込んでは軽い眩暈に見舞はれてゐる。その上、しやつくりが止まらないと来てゐるから、始末に置けんのだ。しやつくりしてゐる《吾》が崖つぷちに佇立してゐるんだぜ。何時、その崖に落ちても不思議ぢやない。
――仮に《吾》が酩酊してゐるとしたならば?
――へつ、《吾》は何時も《吾》に酩酊してゐる《存在》ぢやないかね?
――すると、《吾》の存続とは何時も綱渡り状態といふ事かね?
――当然だらう。だから、《世界》には《死》が満ちてゐるのさ。
――つまり、その崖つぷちにゐる《吾》は翼が欲しいのだらう?
――否。それぢや『フアウスト』宜しく堕天使、メフエストフエレスに為るのが関の山さ。さうぢやなく、これは何度となく言つてゐる事だか、《吾》といふ《念》がその力を発動すれば、《吾》は《吾》から自在になり得るのさ。
――そんな夢物語をどの《吾》が信ずるといふのかね? 取り敢へず、《吾》は《吾》の崖つぷちから遁れるべくその術を見つけ出して、何としても生き延びる事が何よりも先決だらう?
――だから、それが《吾》が《吾》を呑み込む苦行によつて見出される筈なのさ。
――くきいんんんんん――。
――《吾》を呑み込む苦行によつて一体何が見出されるのかね?
――自然といふ《もの》に馴致した《吾》さ。
――自然ね。その自然が《吾》に牙を剥ゐたならば、《吾》は《死》する宿命にある筈だが、それでも自然に馴致する事が、《吾》を呑み込む苦行の目的かね? へつ、ちやんちやらをかしいぜ。何故つて、「現存在」は《世界》を超える、つまり、《吾》は自然を超える何かになる事のみを渇望してゐるからさ。
――一つ訊ねるが、《吾》もまた、自然だらう? その自然の《吾》が自然を超えるとは、その事自体矛盾してゐるぜ。ちよつ、お前の言に従へば矛盾してゐるからいいのだらうがね。
――くきいんんんんん――。
 彼の頭蓋内の闇で、対話する《吾》と《異形の吾》との尽きる事がない黙話以外、
――くきいんんんんん――。
 といふ、世界がぴんと張り詰めたやうな緊迫した状況の中、ぢつと自身の《存在》に我慢し続ける彼は、《吾》をして次のやうに語らせたのであつた。
――それ以前に、生物は、《水》以上の何かと言ひ切れるかね?
――ふむ。《水》ね。生物は《水》を超えられぬな。
――詰まる所、生物とは、Amino(アミノ)酸や蛋白質などが溶け込んでゐる《水》に過ぎぬとはいへ、それでも《存在》は如何なる《もの》でも《吾》を追ひ求める宿命にあるならば、その《吾》は、へつ、自然を全く越えられぬ《水》の異形でしかないのぢやないかね?
――例へば、《水》が不自然としたならば?
――《水》が不自然ね? しかし、《水》こそ自然の象徴ではないかね?
――それは、不純物が混じつた《水》たる生物のみに通用する道理でしかないぜ。此の世には《水》以外にも数多の物質が《存在》する。
――だから何だといふのかね? 知的生命体にのみ《吾》が宿る訳ではないぜ。《吾》といふ《念》は、如何なる《存在》にも宿るんだぜ。
――しかし、己の懊悩を表白出来るのは、知的生命体以外あり得ぬと思ふがね?
――それは《存在》に対する先入見でしかないぜ。《吾》が宿つた《存在》は、それが如何なる《存在》でも《吾》である懊悩を何らかの形で表はしてゐる筈さ。《世界》をよくよく観察すれば、それがよく解かる筈だぜ。
――具体的に言ふと?
――何千年といふ時間で《もの》を見ればいづれも何らかの変容を蒙つてゐるに違ひない。つまり、如何なる《存在》も《吾》が《吾》である事が我慢ならぬのさ。
――ならば、何故に《吾》は《吾》を呑み込む苦行をするのかね? 全くそんな事をする必然性はないと思ふがね?
――例へば、《吾》を見失つた《吾》は、《吾》を《吾》と断言出来るかね?
――ふむ。例へば多重人格者の《吾》とは何かといふ事か――ふむ。
――これで解かるだらう? 《吾》が《吾》を敢へて呑み込むのは、《吾》が唯一無二の《吾》である事を持続する為に必須である事を。
――しかし、《吾》は、《吾》の発生において、否、《吾》といふ《念》が宿る時、《吾》は《吾》である事なんぞ望んではゐない筈だぜ。
――それは本当かね? 俄かには信じ難いがね? 此の世に《存在》してしまつた《もの》は、《吾》が何であるのか、如何なる《存在》かを知りたいのが自然の道理だらう?
――ふつ、自然の道理ねえ……。
――《吾》が知りたい《吾》とは、《吾》によつて純粋培養された「本当」の《吾》の事かね?
――何を明後日の方を向いてしゆべつてゐるのかね? 《吾》に純粋培養された《吾》とは一体何なのかね? それは、詰まる所、《吾》の骸でしかない筈だぜ。
――さう。《吾》は《吾》の骸を不知不識に追ひ求めてゐる。つまり、《死》が《生者》たる《吾》に決定的に欠けてゐる《もの》だ。
――ふむ。何故に《死》なのかね?
――《死》が「本当」の《吾》だからさ。
――ぶはつ。《吾》の究極の目標が《死》かね? 《死》なんぞ時をぢつと待つていれば自然とやつて来る《もの》ぢやないかね? つまり、《死》を別段追ひ求める必然性はありやしないぜ。
――だから尚更、《生》は《死》を追ひ求めるのさ。
――それはまた、何故にかね?
――《生》は《死》へと《死》すまで超越出来ぬからさ。
――それぢや、ない《もの》ねだりと何ら変はりはしないぜ。
――《生》とはそもそもない《もの》ねだりをする《もの》ぢやないかね?
――だから、《存在》は《吾》を求めるといふのかね? 《吾》にとつて決定的に欠けてゐるのが、《吾》といふ事か――ふむ。それでも《吾》は《吾》として仮面を被つてゐる《存在》だ。顔無しでは一時もいられぬのが、此の《吾》さ。それ故に、《吾》は《吾》の《念》を呑み込み、そして、げつぷをする。さうして、《吾》はそんな《吾》に打ち震へてしやつくりをする外ないのさ。それが、《吾》を《存在》の崖つぷちに追ひ詰める事であつてもだ。何故ならば、《吾》は此の諸行無常の浮世に《存在》しちまつてゐるから《吾》は《吾》として此の世に佇立する宿命にあるのさ。
――くきいんんんんん――。
――つかぬ事を訊くが、《吾》はどうあつても《吾》でなければならぬのかね?
――さあ。それは解からぬ。解からぬが、《吾》は此の世に《存在》する以上、《吾》である事から遁れられぬ大いなる矛盾にあるのは間違ひない。
――つまり、《吾》とは矛盾の坩堝といふ事かね?
――当然だらう。さうだから《吾》は《吾》といふ《念》を呑み込む苦行をせねばならぬのさ。《死》すまで、《吾》でゐる為にな。
――《死》しても《吾》は《吾》ではないのかね?
――それは《死者》のみぞ知るだ。
――お前はどう思つてゐるのだ?
――私は、《死》しても《吾》は未来永劫《吾》であるに違ひないと看做してゐるが、さて、さうすると、《吾》は《吾》に堪へ得るのかが不明なのさ。
――神や仏に《死者》は変容しないといふ事だね、お前の考へでは。
――ああ。《吾》は《死》しても尚、どす黒い欲望を抱ゐた《吾》であるに違ひない。つまり、《死者》もまた、《吾》といふ《念》を呑み込んでげつぷをしてゐるのさ。でなければ、此の世で絶えず不快な耳鳴りが聞こえる筈はないのだ。
――くきいんんんんん――。
――ならば、《異形の吾》とは一体全体何なのかね?
――《吾》の出来損なひ。
――《吾》の出来損なひ? 本当にさう思つてゐるのかね? 寧ろ、《吾》の理想と違ふのぢやないかね?
――《吾》の理想であつても《吾》の出来損なひには変はりはない。
――《吾》が《吾》の出来損なひであつて、《異形の吾》は《吾》の本然と違ふのぢやないかね?
――《吾》の本然もへつたくれもありやしないぜ。あるのは、此の未完の《吾》のみで、その《吾》は《吾》といふ《念》を呑み込む事で漸く《吾》なる仮面を被つてゐるに過ぎぬのさ。
――どうあつても《吾》は諸行無常の此の世に《存在》する為には仮面を被らなければならぬのかね?
――ああ。どうあつても《吾》は面がなくちやならない。何故つて、《吾》に面がなけりや、《吾》を呑み込む時、呑み込んだ気がしないからさ。
――ぶはつ、それだけの為の仮面かね? 馬鹿らしい。
――さう。《吾》の相貌とは、所詮そんな《もの》さ。《吾》が《吾》である目印でしかないのさ。
――しかし、その《吾》の相貌が《吾》の《存在》に大きな役割を果たしてゐるとしたならば?
――だから?
――つまり、《吾》において、初めに顔ありき、なのさ。
――何故に、初めに顔ありきなのかね? 《水》の不純物に過ぎぬ《吾》においては、初めに顔などありやしないぜ。初めに《一》なる受精卵があるのみだ。
――その受精卵こそが《吾》の相貌の《一》例になる。
――ふむ。受精卵こそが《吾》の相貌の《一》なる《もの》ね。それつて、詭弁ぢやないかね?
――勿論、《吾》の相貌は何でも構はぬのさ。
――何故に?
――顔とは、面とは、相貌とは、顔貌とは、それが何であれ、仮初の《もの》でしかないからさ。此の世が諸行無常のやうに、《吾》の相貌も変化して已まぬ。仮初に過ぎぬから《吾》は絶えず《吾》を呑み込んで「げつぷ」をするのさ。「げつぷ」こそ自己確認の最たる《もの》なのさ。例へば、「現存在」の受精卵は、細胞分裂をし、自己増殖する過程で、地球上に出現した全生物に変化しながら、最終的に「現存在」の赤子へと変容するが、つまり、《吾》は、此の世に赤子として誕生したときに既に全生物史を体現してゐる百面相なのさ。然しながら、百面相なるが故に《吾》を象徴する面がどうしても必要になる。其処で、《吾》は、《吾》の《念》の宿り木としての仮初の《存在》として「現存在」に宿り、《吾》の相貌を手に入れるのさ。
――へつ、それでは言つてゐる事が矛盾してゐるぜ。私は、《他》を見る時、《他》の相貌は振動していて、《一》なる《もの》としては顔が見えぬのだ。絶えず揺れ続けていて、様様な顔が《他》の相貌には現出するのだ。決して《他》の相貌が《一》に纏まる事がないぜ。
――それで?
――つまり、私において《他》の顔貌は、無数の顔の重ね合はせに過ぎぬのさ。決して《一》なる仮面としては見えぬのだ。
――それでも《吾》は《一》なる仮面を被るのさ。そして、《吾》は摂動する。摂動せずにはをれぬのだ。何故つて、《吾》が《吾》である事は、どうあつても《吾》にとつては受け容れ難い苦悶でしかないからさ。
――ならば、何故に、仮面を被るなどと言ふのかね?
――《零》の面が必要なのさ。
――は? 何を言ひ出すのかね? 《零》の面が《一》なる仮面と何の関係があるのかね? そもそも《零》の仮面とはいつたい何の事なのかね?
――《吾》は、《一》の仮面ではなく、飽くまで《零》の仮面だからさ。
――その証左は?
――《吾》が《吾》である、といふ命題は此の世でこれまで一度も成立した事はないからさ。
――はて、それぢや、何の説明にもなつてやしないぜ。
――何、簡単な事さ。《吾》とは、千年前に《存在》してゐたかい? また、千年後に《存在》するかい? どちらも否だらう。つまり、《吾》は《死》すべき《もの》故に、初めに無であり、末期も無に向かふ《存在》だ。つまり、《吾》は無の仮面、それを単純に数字に当て嵌めれば《零》が仮面を付けただけの泡沫(うたかた)の《存在》でしかない。
――それは論理の飛躍と言ふ《もの》でしかない。それでは此の私とは《一》者ではないのかね?
――千年単位で見れば無でしかない。
――千年単位で「現存在」を語る事こそ詭弁でしかないぜ。
――本当にさう思ふのかね? しかし、「現存在」の極少数でしかないが、その少数の「現存在」が生み出した、或ひは発見した作品なり法則なりは、千年は生き残る《もの》だらう? 千年経つてもびくともしない、例へば、ギリシア哲学のプラトンやアリストテレスの著作物は、今もつて、その力を失ふ事無く、現代を生きる「現存在」に対して感銘を与へ続けて已まない。
――しかし、それは、限られた人人でしかない。その他大勢の千年前、否、二千年余り前か、その古代ギリシアの時代に生きてゐた数多の人人の消息は、現代では 失はれてしまつてゐるではないか。
――では、一つ訊ねるが、古代ギリシアの人人と現代の人人と、何時の時代にか決定的な断裂があつて、古代ギリシアの人人と現代人とに何か決定的な違ひは日常においてあるかね?
――文明の利器のあるなしといふ大きな違ひがあるぢやないか。
――そんな事は瑣末な事でしかない。「現存在」が生きる事において、古代ギリシアの人人と現代人では何か決定的な、ドストエフスキイ曰く、物理的な変化はあるかい?
――寿命が決定的に違ふぜ。
――ならば、寿命が延びた現代は、古代ギリシア哲学を超えた何かを創造出来たかい?
――少なくとも現代思想は古代ギリシアに匹敵する筈だがね。
――くきいんんんんん――。
――ちえつ、不快な耳鳴り、否、《吾》のげつぷであり、しやつくりだつたな。これは不愉快極まりないが、それはともかく、現代思想には千年生き延びる膂力が果たしてあるかね?
――少なくとも、思想史としては残る筈だぜ。
――そんな事は言はれる迄もなく、誰もが解つてゐる筈だが、私が訊いてゐるのは、果たして現代思想は千年後も生き生きとその輝きを失はず、千年後の人人に影響を与へてゐると思ふかね?
――さてね。だが、多分、千年後の人人に現代思想は少なからずの影響を与へてゐる筈だとは思ふがね。
――はて、それは何故に?
――現代は、渾沌としてゐるからさ。渾沌は創造の源泉だらう?
――ふつ、渾沌は今に始まつた《もの》ぢやないぜ。百年前には既に渾沌の世は始まつてゐた筈だがね。つまり、現代は百年前に比べて、更に輪をかけて渾沌の度合ひが深まつたのみで、渾沌が何かの創造の源泉だつた事は稀にしかありやしない。
――当然だらう。歴史に名を残す《存在》は、何時の時代でも一握りの《存在》でしかないのは《もの》の道理だらう。
――つまり、現代とは玉石混淆に過ぎぬといふ事だね。どれが千年後に生き残るかは《神》のみぞ知るだね。
――多分、現代の非主流派が、千年後迄生き延びてゐる可能性が高い。
――それはまた、何故にかね?
――何時の世も傍系に甘んじて、或ひは虐げられ、その「現存在」が存命中には全く評価されなかつた《もの》が、意外にも後の世に多大な影響を与へてゐる《もの》が少なくないからさ。
――つかぬ事を訊くが、お前は現代思想に詳しいのかね?
――いいや、全く。
――それで、千年後がどうしたかうしたと語るとはちやんちやらをかしいぜ。
――現代思想は、読んでいて面白くないのだ。
――それはお前の個人的な嗜好に過ぎぬぢやないか!
――だが、思想であつても、私をわくわくさせない《もの》など千年後も生き生きしてゐるなんて考へられる筈はないだらう?
――自家撞着だぜ、お前の言つてゐる事は。つまり、《吾》が《吾》である事はないと言ひながら、思想においては《吾》の好悪で判断するこの大矛盾を何とするのかね?
――《吾》が《吾》である事はあり得ぬが、然しながら《吾》が不完全な形であつても此の世に《存在》する《吾》が、思想においてそれを《吾》の好悪で判断しても別に構はぬがね。
――それが詭弁なのさ。
――ならば訊くが、《吾》において《他》とは何なのかね? 少なくとも《他》は《吾》でないといふ事は、何事においても前提条件になつてゐるのは何故かね?
――何、簡単な事さ。《吾》は《他》であり得たかもしれぬその蓋然性に眩暈を起こすのさ。さうでありながら《吾》が《他》なしに一時も持続出来ぬ皮肉を噛み締める。それで十分だらう。この哀れな《吾》の屈辱を味はふのは。
――つまり、千年前も千年後も《吾》が存続する為には《他》を殺して喰らふといふ事かね?
――さうさ。しかし、屠殺する仕方は、多分、近未来には人の手からロボツトに変化してゐるだらうがね。つまり、《生》を殺す殺し方は、如何に人の手から遠い処で行はれるかを芸術的なまでに自動化する筈さ、此の人類といふ《もの》は。多分、Monitor画面越しに人はあらゆる事を行うといふ事を目指すに違ひない。
――それはまた、何故にかね?
――楽だからさ。それだけの事さ。
――しかし、或る種が、楽を求めた刹那、その種は絶滅への道にまつしぐらぢやないかね?
――さう。緩慢なる絶滅への道さ。倒木更新は、生物史で起こらなければならぬのさ。人類なんぞ絶滅すべき最たる《もの》さ。
――それはまた何故に?
――約めて言へば、下らぬからさ。
――ふむ。下らぬねえ? それではお前はお前自身の自滅を願つてゐるといふ事かね?
――さあ、それは解からぬ。唯、私は生き恥を晒して生きいてるのは確かさ。
――だからと言つて、それが《他》も同じだとは思ふのは僭越といふ《もの》だせ。
――ならば、お前は何故に《生》にしがみ付いてゐるのかね?
――へつ、私はもしかすると既に死んでゐるかもしれぬぜ。まあ、それはそれとして、変容する《吾》の行く末を見定めたいだけさ。
――それこそ詭弁だぜ。
――さうかね? 三世恒常なる《存在》をお前は夢見ないかね?
――三世恒常、つまり、過去、現在、未来を超えた超然たる《存在》への変貌を夢見るといふ事か――ふむ。それは、《死者》が既に行つてゐる事だらう。《死者》は《生者》にとつて、三世恒常な《存在》さ。例へば、プラトンが現在に至つても尚、その思想が生き生きとしてゐるのは、ソクラテスが《存在》した事にもよるが、しかし、プラトンが書を遺したからだらう。
――つまり、文章、否、文字に《吾》は宿ると?
――さう。《吾》は文字に宿る《念》なのさ。
――くきいんんんんん――。
――さて、つまり、《存在》とは、文字により、置き換はる何かといふ事かね?
――多分、さうなのさ。書く事でやうやつと《吾》がその漫然とした輪郭を多少はくつきりと浮かび上がらせる事が可能なのさ。
――さうかね? 私は、書く事によつて益益混迷の中へと突き進む《吾》を見出すがね。
――それは、お前の変容がまだ不十分だからに過ぎぬ。絶望を知つてしまへば、否応なく《吾》は《吾》を文字に認(したた)めるに違ひない。
――それは言霊信仰と同じぢやないかね?
――勿論! 言霊の《存在》を信ずればこそ、《吾》は《吾》を《念》と言つてゐるのさ。
――つまり、《念》は言語に上手く乗れるといふ事かね?
――別に言語に拘る必要はない。絵画や彫刻や音楽だつて《念》は乗るからね。
――それでもお前は言語を選んだのだらう? それは何故だね?
――心像において色や形や音は邪魔だからさ。
――抽象絵画は? 将又、現代音楽は?
――抽象絵画にしても現代音楽にしても、今度は心像の幅が大き過ぎるのさ。
――つまり、言語が最も自在に心像を喚起するといふ事かね?
――さう。つまり、《念》の乗り物として言語においてこそ、多少の自在が保持される。
――奔放なる心像の表出は厭だと言ふ事だね?
――さう。何事も過剰はよくない。過剰であると、結局、己の好む《もの》のみを選ぶ傾向があるからね。何故つて、《吾》は過剰に対して絶えず防御反応を引き起こし、過剰を選別して、平常へと無理矢理引き摺り下ろす。その選別の時、《吾》は《吾》の好みに応じて選別してゐるのが普通なのさ。そして、過剰は《吾》を極度に疲れさせる。これがいけないのさ。例へば抽象絵画や現代音楽は、余りに過剰に私に語り掛けてくるので、観たり聴いたりする時、唯唯、疲れるだけなのさ。況して漫画は尚更私には過剰な情報量がある故に読むと途轍もなく疲れるのさ。
――それぢや、情報過多な現代ぢや生きてゆけないぜ。
――何、情報を遮断しちまへば、それで済むだらう?
――情報を選ばずに遮断するか――ふむ。しかし、それぢや、山に住む仙人と何が違ふのかね?
――別段違はなくとも構はぬではないか。
――ならば、山に籠る方がどれ程《吾》には生き易いか、今更言ふに及ばずだね、
――また、山に籠るには若過ぎると思つてゐてね。例へば仏門に入るとして得度するのにまだ若過ぎると思つてゐるのさ。
――つまり、後後は仏門に入らうと?
――さあ、それは解からぬが、唯、情報に溺れずに思索に耽る静かな生活は送りたいと願つてゐる。
――そんなもの、今やらなくて何時やるといふのかね? 時は待つて呉れやしないんだぜ。
――だから、私は情報を遮断してゐると言つた筈だぜ。
――それで何か悟れたかね?
――いや、 何も。
――ふつ、当然だな。
――さう、悟る事なんぞ端から望んでいない。
――しかし、思索には耽りたいといふ我儘は推し進めようとして我を通さうとする。この大いなる矛盾を何とする?
――別に、どうともしないぜ。矛盾をちやんと抱へ込む事が、思索の源泉になるからね。
――ふむ。しかし、自在を求める事によつて我執に囚はれるといふ袋小路は、混乱のもとだぜ。
――所詮、《吾》は混乱、へつ、渾沌としてゐる《もの》なのさ。
――それを言つちやお仕舞ひだぜ。
――さうかね? 《吾》は渾沌故に思索を望む《もの》ぢやないかね。
――その方便としての言語だね?
――さういふこつた!
――ならば、《念》を言語に盛る形式は見つかつたかい?
――いや、まだ手探り状態さ。唯、ドストエフスキイに匹敵する《もの》はものにしたいがね。
――へつ、何と高望みな事よ。ドストエフスキイと来たもんだ。ふつ、それは非常に非常に非常に難しい事だぜ。
――だから望む処なのさ。
――それは詰まる所、不可能を可能にしたいといふお前の願望だらう?
――不可能を何とか可能にするべく、《吾》は思索する筈だがね。何故つて、《吾》が此の世に《存在》しちまつた事を受け容れるその仕方は、人それぞれ違ふやうに思へるが、ところが、《吾》がこの得体の知れぬ《吾》を受け容れる「受難」は、《吾》を困惑させ、《吾》は戸惑ふばかりなのだ。
――それと ドストエフスキイと何の関係があるといふのかね?
――ドストエフスキイの巨大作群は、私の魂を揺さぶつて飽きさせないのさ。
――だから?
――だから、《生》が面白いのさ。
――へつ、そんな事でお前は《生》を繋ぐといふのかね? それぢや、未だ見ぬ未来人に対して合はせる顔がありやしないぜ。
――さうかね? 私は、それ故に、ドストエフスキイを超えた《もの》を認めたいと思ふのだがね。
――それが、無茶苦茶なのさ。ドストエフスキイを超えるだつて? それは永劫に亙つて不可能だぜ。
――だから、この《吾》は《生》を繋げるのぢやないかね。超えるべき《もの》に出合ふといふ幸運は、さう簡単にはあり得ぬからね。
――否! 誰もが超えられぬ《もの》の《存在》を認識してゐるぜ。例へばお前はお前の親を超えたと思つた瞬間があるかい? ないだらう?
――つまりだ。この《生》には、元来、超克するべき《もの》を最も身近な処に坐させるのさ。しかし、《吾》はどう足掻ゐた処で親とは死別する運命にある。これは何《もの》も避けられぬ事だ。つまり、親は超えられぬままに、《吾》の元から彼の世に出立し、《吾》は独りで、若しくは、伴侶を得、子を儲けて「自立」する事を余儀なくされる。
――それとドストエフスキイと何の関係があるといふのかね?
――つまり、人生とは不可思議で面白いといふ事さ。
――それぢや、何の説明にもなつていないぜ。例へば国旗に文字を書き込むのは、多分、日本人以外ゐないと思ふがね。つまり、日の丸に文字を書き込む日本人は、他国に比べて今も尚、言霊信仰が、さうとは自覚してゐなくとも、厳然と《存在》してゐると看做せる。その日本人であるお前は、お前の魂を揺さぶつて已まないドストエフスキイの巨大作群には、言霊が確かに《存在》するその証左を見てしまつたからぢやないのかね?
――それ故に、日本人は言霊を、この高度科学技術文明社会においても原初的な力が宿る《もの》として、無意識に感じ取つてゐるとも言へる。
――それつて何故なのかね? 何故に日本人のみ国旗たる日の丸に文字が書き込めるのか――。
――文字が神聖で冒すベからぬ《もの》として、今も古代の習俗が残つてゐるからだらう?
――つまり、国旗に文字を書き込む日本人といふ《もの》は、私が言ふ《念》といふ《もの》を不知不識のうちに信じてゐるといふ証左だね?
――《念》ずれば伝はり、成し遂げられるといふ信仰が今も根付いてゐるのさ。それ故に、私は、日本語でドストエフスキイを超える作品を書きたいのさ。
――それが無謀な神をも畏れせぬ所業だといふのさ。
――だが、何《もの》によつてか、ドストエフスキイを乗り越えねばならぬのは人類に託された宿題な筈だ。
――しかし、それつて既に何人もの先達が挑戦してゐる筈だが、しかし、それでも尚、断然ドストエフスキイの方が輝いてゐるのが実情だらう。
――だからといつて、この無謀とも言へる挑戦に挑まなくてどうする? 「現存在」ならばどうあつてもドストエフスキイに挑戦しなければ、己に対する屈辱は尚更益すばかりで「現存在」は死に追ひやられるのみさ。また、ドストエフスキイにぶつからないでやり過ごそうなどという輩は思想なんぞ語る資格すらない。そして、恥ずかしくて「現存在」を《吾》と名指す事など生涯、否、未来永劫に亙って出来やしないんだぜ。乗り越えるべき「壁」は高くて頑丈なほどいいに決まつてゐる事は言はずもがなだらう。そして、現代においても尚、その輝きに微塵の陰りもないドストエフスキイの巨大作群には、強烈至極な《念》が宿つてゐるぢやないか。それ故に乗り越え甲斐があるのさ。
――さう思ふのであれば、さうすればいいだけのことだらう。そんな事、此処で公言するものでもないだらう。やりたければ好きにすればいい。
――何を他人事のやうに言つてゐるのかね。この問題は全人類に投げかけられている大問題なんだぜ。ドストエフスキイが全人類に投げかけた問題を解かずして、未来があると思ふかい? 
――そんなことお前に言はれずとも重重承知してゐるがね。更に言へば、二十一世紀の現代において、ドストエフスキイが生きてゐた時代に持ち越しにされてゐた問題が世界各地で噴出してゐるこの事態は、再びテロルの時代を齎したわけだが、さて、この凄惨な事態に対して「現存在」には何が出来るのか考へざるを得ず、これを避けて抛つておくと、テロリストを世界各地にばらまくだけといふ事を知つてしまつた「現存在」はどうすべきか狼狽へてゐるばかりなのである。
――だから尚更、「現存在」は日常にテロルがあると言ふ「現在」に戸惑つてゐるんぢやないかね。
 彼はさう黙考の中に沈潜しながら、人間のどうしやうもない性に対して絶望する外ないのかと、深い哀しみに魂魄が圧し潰されさうになりながらも、こんな時代だから尚の事、生き延びなければならぬと覚悟するのであつた。とはいへ、テロルに及ぶ《もの》達の、その深い「人間」に対する憎悪は何に起因するのだらうと思ふのだが、それは現在世界で起きてゐるテロルの殆どは、近親憎悪に思へなくなかつたのである。しかし、近親憎悪程、此の世で厄介で残酷な事はなく、また、その闇の深さは底無しに違ひなく、それは、多分に互ひに争つてゐるどちらかが剿滅する迄続くに違ひないと思へなくもないのであつた。
――近親憎悪? 言ふに事欠いて近親憎悪だと? つまり、現在世界を蔽つてゐる暗い暗い暗い影は、骨肉の争ひに過ぎぬと言ふのかね。お前の見方は、現在世界で起きてゐるテロルは近親憎悪以上でも以下でもないと言ふ事なのかね? これは異な事を言ふ。仮に未だ宗教が存在してゐなかった太古の昔であつても、戦争は、哀しい哉、厳然と存在してゐた筈だがね。つまり、宗教にテロルの起因を求めるのは間違ひだぜ。多分に「人間」の死生観が変化してしまつたと看做した方が賢明だらう?
――つまり、己の死は己独りで完結させるものではないと?
――ああ。テロルとはそもそも自爆者独りで完結するものと言ふ考えは全く存在せずに、身も知らぬ《他》をなるべく多く死に巻き込むと言ふ事がその使命だらう。つまり、死は日常のあらぬ処に何時も転がつてゐるのさ。さうして此の世を蔽ふ《ざわめき》には身も知らぬテロリストに殺された無辜の人たちの怨嗟も混じり始めたのさ。だから、それは耳を劈く程に鋭く強烈な音にも変化しちまふのさ。
――つまり、テロルに巻き込まれた無辜の人たちは未だに己の死を自覚してゐないと?
――当然だらう。彼らは未来永劫己が死んだとは思ひもよらぬ筈だ。更に悪い事に、テロルで死んだものは大概異教徒か宗派が違うものに殺されてゐる。これ程残酷な事はないだらう。
――つまり、テロルに巻き込まれて死したものは、「現存在」の自由の最後の砦たる死を、無理矢理剥奪された何かへと強制的に変化させられた哀しむべき存在なのだらうか。
――大いに哀しむべきと思はれるのだが、それでも一体全体何事が起きたのかを全く知らずに死んでしまつた彼ら彼女らは、此の世を恨んで彷徨ひ続けると言ふ、何ともやるせない、しかも、恐ろしき存在へと必ず変化してゐて、死した彼女彼らは誰彼と見境なく憑依しては、更なるテロルを実行するのかもしれぬな。
――死の連鎖か……。怨恨は死の連鎖を生む化け物だ。況して己の死も知らぬものが「現存在」の自由の最後の砦たる死を知らぬ以上、残された親類縁者においてもよからぬ恨みとしてそれは発露し、やがてはテロルを実行するのか……。
――その状況の混沌としたものが現在だ。世界は何処も彼処も恨みと鎮魂の入り交じつた暴風の中で、各人は歯を食い縛つて大地に屹立するのだ。
――つまり、此の世に屹立する事に異常な労力を必要とする、何とも生きづらい世が再び百年ぶりに到来したのだ。世界が個人で閉ぢて温温と過ごせる時代は既に過ぎ去つてゐて、世界には不意に身も知らぬテロリストが出現し、世界は阿鼻叫喚の様相を呈し、一気に爆風で開かれ、そのぞつとした有様は、誰にとつても足が竦む恐怖が支配する暗黒時代の始まりかも知れぬのだ。
――暗黒時代? 暗黒世代と言へば、中世の西洋が将に暗黒時代と形容されるが、しかし、研究が進むにつれ、以外と庶民は逞しく生き、活気があつた時代として見直されてゐる。しかし、百年前のテロルの時代は、世界の冷戦構造で一旦封印されたかに見えたが、それは、テロリズムよりも強大な恐怖で世界を蔽ふ事で、テロリストの憤懣は雲散霧消してゐただけなのかも知れなかつたのだ。さうして、その箍が外れた現代、世界各地でテロルが毎日のやうに起きてゐるが、それはしかし、限定的、かつ局所的な恐怖を醸成はするが、世界は尚も安寧の中に殆どの世界は胡座を舁いてゐる。
――だから、《吾》が《吾》を呑み込むといふ事には、既に雑音が、ノイズが絡みついてゐて、《吾》は雑音に塗れた《吾》を呑み込むのだ。さうして、相変はらず《吾》はげつぷをするのだが、そのげつぷは、もう不快極まりない音ならざる奇怪な音で《吾》はもう、苦笑ひするしかないのだ。
――それはもう、げつぷではないのぢやないかね?
――さう。もうげつぷではなく、うんうんと唸る呻吟に近しい、もしかすると苦悶の断末魔かもしれぬのだ。
――さうだね。此の世は理不尽に殺戮されたものが余りにも多くなつてしまつた。それら永劫に報はれぬ不合理のうちに殺戮されたもの達の断末魔が、《吾》が《吾》を呑み込んだときのげつぷを、かき消してしまつたといふことだ。既に慈悲深い世界に抱かれてゐた此の世の春の時代は終焉してしまつた。今は何処も阿鼻叫喚が逆巻く、怨恨ばかりが跋扈する身震ひする外ない世界に変貌してしまつた。何たることか! 怨恨は怨恨を誘ふ永劫に続く連鎖を生み出してしまふ。或る処に怨恨が生まれてしまつたならば、最早、怨恨の連鎖を断ち切る術を「現存在」は持ち合はせてゐないのだ。
――だからといつて、憤死するわけもなからう。怨恨を抱いたものが憤死するだけの覚悟は最早、現代は抱かせない論理が優先する。とはいへ、今も、憤死するだけの覚悟を持つた強者は存在し、チベツトの僧は、その先陣を切り、体制に反発して憤死するのだ。しかし、憤死もまた怨恨を生むのみで、やがて、それは闘争へと発展するに違ひないのだ。チベツトの僧達の憤死は、それを望んでゐる。導火線になる事を望んでゐるのだ。果てしなき闘争、それは戦争に違ひなく、それをチベツトの僧は待ち望んでゐるのだ。
――既に我慢の限界か? 「現存在」は存在自体に我慢の限界を迎へてゐるのか? だとすると、再び、実存主義の時代が到来するのかね?
――さあね。だが、新語造語を作らなければ此の世を語り果せる言葉を最早「現存在」は持ち合わせてゐない。だから、《吾》はげつぷしか吐けないのだ。言葉を持ち合はせてゐないからこそのげつぷは、多分、《吾》の哀歌、若しくは悲歌に違ひない。
――つまり、Swansongといふ事か。ならば、最早、此の世には哀しみしか意味を持たぬと言ふ事か。ふつ、つまり、現代は哀存主義か、将又、悲存主義の時代という事かね?
――つまり、現代では無の無化を徹底的に行つたために、此の世に存在したものは絶えず太陽光に等しき光に晒されて、《吾》の恥部を万人に晒してゐるのだ。その恥部とは《吾》の素面だがね。何故って、「現存在」ほど仮面好きもをらず、「現存在」とは仮面族の別称だらう。
――まあ、そんなところかな。だが、素面見たさに《吾》を隈無く検査と称して調べ上げたのは、これまた、「現存在」のどうしやうもない性だらう。今は、脳にSpotlightが当たてゐるが、人工知能とともに脳も解析されるのもさう遠くはないだらう。だが、その時、「現存在」は己の立ち位置をどうするのか、難しい問題に出遭ふ筈で、それに堪へ得る存在論を「現存在」は構築せねば、多分、半数以上の「現存在」は路頭に迷ふ筈だ。
――何故、路頭に迷ふと?
――拠り所がなくなるからさ。
――何の拠り所かね?
――人工知能を搭載した「肉体」を持ったAndroid(アンドロイド)、若しくはRobot(ロボット)の登場で、意識が万人の目に晒される事になる。さうなると、存在はAndroidかRobotかに関して徹底的に解析した方が、格段に解りやすく、それは、Programming言語で翻訳可能な筈で、意識が白日の下に晒されるのさ。そこで、「現存在」は解析された意識に準ずるやうにと強要され、それができないものは、社会に適応できず、Dropoutする筈さ。
――果たして意識がその尻尾を出すと思ふのかい? 神と言ふ「インチキ=崇高」をでつち上げて信仰する「現存在」のその浅薄でありながら、不可解な、そして、奥ゆかしい意識は、さて、神神しいものとして「現存在」の眼前にその姿を現はすと思ふかい?
――さてね。唯、人工知能と競合するものは数多出てくるのは、甘んじて受け容れなければならぬ。しかし、その一方で仮にも人工知能を奴隷にできた暁には、「現存在」は貴族然として思索に耽る存在として此の世に存在する事になると思ふかね?
――どのみち、人工知能と共存しなければならない世界に既に「現存在」は置かれてゐて、これから生まれてくる未来人は、先験的に人工知能が存在する世界に出現させられる。だからといって、「現存在」は己を卑下する必要はないのだが、しかし、何においても人工知能の方が優秀という事態に出遭ってしまふと、己が特権階級に属すると言ふ観念を抱けるのかどうかは不明だがね。それ以前に、赤子は人工知能をどう理解するのだらうか。
――何、心配いらないぜ。物心が付いてAndroidとかRobotとかの言葉を知れば、既に其処には或る観念が付随してゐて、やがてAndroidもRobotも「現存在」と違ふ存在である事はぼんやりと区別する筈さ。
――ぼんやりとかね?
――さう、ぼんやりとだ。哀しい哉、青春の苦悶を経験しなければ、AndroidもRobotも赤子にとってはぼんやりとした観念しか持てぬのだ。存在の魔に囚はれた時に始めて、自同律と他とAndroidとRobotの存在様式の在り方が違ふといふ事を身を以て知らされる。
――それは知らされると?
――さう、知らされるのだ。自意識が肥大化する思春期を過ごし、やがて《吾》を持ち切れぬ事にはたと気付いた《吾》のみが、「存在とは何ぞや!」と無言の世界に対して問ひを発する。しかし、《吾》はどうしやうもない屈辱感に苛まれながら、無言の世界に対して名指し始めるのだ。その段になると《吾》は、やうやつと《吾》が特別な存在でない事を、つまり、その他のものとして同等の単に名があるのみの存在でしかない事を心底思ひ知らされるのだ。
――其処には絶望しかないんだらう?
――さう、絶望があるのみ。だから《吾》は哲学に、文学に、信仰に、或ひは科学に縋る。さうやつて《吾》は《吾》を誤魔化すのだ。
――だが、《吾》はそんな中途半端な状態に堪へ切れず、《吾》を虐めながら弄くり回すのだ。
――へつ、それでも何にも答へは見つからないぜ。
――そんな事は百も承知さ。承知しながら、《吾》を酷使せずにはをれぬ。さうして《吾》は《吾》を破壊し、廃人になるのさ。廃人になりさへすれば、後は絶望も、苦悩も、何にもありやしない。
――しかし、廃人なるまで、《吾》を虐め抜いた《吾》を知らぬぜ。
――当然さ、廃人になる前に、殆どの《吾》は自死を選んでゐる筈さ。
 彼はふうつと一息吐くと、何処か顔が引き攣つた嗤ひをその顔に浮かべ、眼窩に爛爛と輝く眼で、虚空をぢつと眺めたのであった。彼には、果たして虚空に何が見えてゐたのだらうか。多分、それは、観念がある異形の姿を纏つて虚空に出現し、共食ひをしてゐる悍ましい光景だつたのかもしれなかった。
――それではお前は何なのかね?
――廃人さ。
――自ら廃人と言ふのは、廃人でない証拠だぜ。
――しかし、《吾》はとつくの昔に廃人になつてしまつたのだ。何故つて、《吾》は到頭《吾》を持ち切れなかつたのだ。だから、今は、言葉にならないげつぷを吐くのみのしがない存在に成り下がつちまつたのさ。最早、世界に対して、この無言の世界に対してぐうの音も出ぬ《吾》は、只管《吾》を
呑み込む事でやうやつと《吾》は《吾》である事を自覚させてゐるのさ。
――其処には自同律の不快は存在するのかい?
――いや、もうないね。感覚が全て麻痺してしまひ、快不快を感ずる感覚など全て失つちまつたのだ。
――何故、 其処まで、自己を追ひ込んだのかね?
――さうせずば、俺は此の世で生き残れなかったのさ。何としても生き残るべく、唯生き残る事にのみを廃人になりながらも縋つたのだ。でも、死んだ方がどれだけ楽か! しかし、この楽がいけない。楽こそ滅亡の端緒なのだ。楽したいが為に死を選んでも、それは終始自己満足に成り下がり、誰も、その死したものの観念などに思ひを寄せぬ、残酷な世界の一面が見えてゐたからね。
――それだけ語れるのであればお前が廃人な筈はないぜ。
――どうもご勝手に。しかし、俺は最早此の世界に対して無抵抗な輩の一人にしかなり得ぬのだ。哀しい哉、思春期に抱いたこの世界に対峙する《吾》の存在と言ふ大仰な夢は露と消えたのだ。
――それが廃人、へっ、それがお前の行き着いた結論かね。
――だから俺はげつぷをしているのさ。この何とも不快なげつぷをね。
――舌の乾かぬうちに不快と言ったな。まだ、快不快の感覚は残つてゐるんぢやないかね?
――いや、 もう快不快の感覚は残つてゐない。げつぷを不快とか感じるのは感覚ではなく、俺の観念の記憶に過ぎぬのさ。遠い昔の記憶にげつぷは不快だ、といふ記憶が残つてゐて、その残滓がげつぷは不快だと思はせてゐるに過ぎぬ。
――へつ、嗤はせるな! お前の何がお前をして《吾》を潰滅するに任せたと言ふのだ。お前は、哀しい哉、まだ、此の世に存在する。お前は潰滅はしてゐないのだ。
――唯、俺は死者の代弁者にはなり得るかも知れぬとは思つてゐるがね。
――それは思ひ上がりに過ぎぬぜ。お前は、生者であるが死者ではない。
――しかし、耳を劈く死者どもの断末魔ははつきりと聞こえるのだ。そして、死者の多くは、自らの死を受容してゐないんだぜ。をかしいだらう。死者は大概己の死を知らぬ生者として此の世を跋扈してゐるんだぜ。ほら、其処に自らの死を知らぬ死者の霊が漂つてゐるぢやないか。へつ。


 こんなひそひそ話が世界のあちこちで毎時行はれてゐる……。それがぎわめきとなつて俺の耳を劈くのだ。

(完)


小説のコメントコメント
この作品の著作権は、作者である 積 緋露雪 さんに帰属します。無断転載等を禁じます。

彼とその彼の《異形の吾》の《存在》に対する自問自答が堂堂巡りを繰り返しながら、ちっとも本質に迫れないそのもどかしさを唯書き綴っただけの対話劇です。
2019/10/24 17:56 積 緋露雪



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