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現代小説/歴史小説

『蜃気楼』

今井 舞馬著



蜃気楼

「ラーニャって言ったか、嬢ちゃん。どうだ、街を離れるのは寂しいもんか」
トラックの運転手は、咥えた葉巻の煙を車窓から吐き出しながら、荷台に向けて声を飛ばした。
返答はない。荷台からはくたびれた黒のヘッドスカーフのはためく音が、風に乗せられてばさばさと響くばかりだ。
 少女は、その音を鎮めるように、荒ぶる布切れを両手でそっと押さえ込んだ。
 しかしその視線はスカーフには向かず、流れゆく景色をひたすらにとらえ続けている。
 丘の傾斜に沿って不揃いに並んだ黄土色の住居群、欠け落ちた粘土の壁、生まれ育ったトタン屋根の家の跡……。あんなに大きく見えていたこの街の景色も、活きいきとしていたあの町の脈動も、耳障りなエンジンの音と共に次第に縮んでいって、小さく遠く離れていく。そして、それももうじき見えなくなってしまうだろう。
「最近はそういうんも減ったと聞いとったが。嬢ちゃん、気の毒になぁ」
 街の外沿いの道を抜け、郊外に出た。ここからの道路は南部へと続いている。ここを過ぎてしまえばもう、持ち合わせもツテもない彼女が自力で戻るのは難しいだろう。少女は名残惜しそうに視線を逸らした。
 が、その逸らした視界の片隅にふと、夕焼けに照らされて茜色に染まった砂丘が映った。思わず上体を起こして荷台の縁に身を乗り出す。
 とっさに脳裏をよぎったのは幼少期を共に過ごした少年との記憶だ。
 お互い身寄りをなくしていた所に出会って、二人で支えあい、したたかに生き延びた。
一緒に遊んで、一緒に学んだ。時には悪さをしたりもした。家族という概念が共に過ごした時間と、それに育まれた絆であるとするならば、二人は家族だった。
 そのセリクは少年兵として、一月ばかり前に召集されてしまった。
 彼が戦地に赴く前に、この砂丘で共に誓いを立てた。
 季節が変わるたびに必ず手紙を送ると。決してわすれないと。
 そして大人になってまた巡り会ったら、その時にもう一度互いの愛情を確かめ合おう、と。
 少女は、この街を離れることが、大切な記憶から離れてしまうことであるような気がして心細かった。
そうして気は沈む一方で、しかし何故だかどうしようもなく感情は高ぶっていく。
少女は次第に堪らなくなって、つっかえるような息を吐いた。
「水は貴重じゃ、こぼしすぎんとけよ」
 運転手はバックミラー越しに、車窓から汗ばんだタオルを荷台へと投げた。
 少女は運転手を一瞥してすぐに視線を元に戻し、そのタオルで大きく鼻をかんだ。
 トラックは、少女の眠る間にもいくつかの街を経由して、その後も南下し続けた。
 途中その経由した街で、新しく何人かの少女が荷台に積まれた。
みな同様にどこか不安そうな、虚ろな目をしていた。会話はなかった。
 どれくらい経ったろうか。
陽が3度昇って、パンを4つほど食べた。それぐらいの時間だった。
そうしてようやくトラックは目的の街についた。
 日はとうに暮れているのにひどく暑かった。陽射しの熱が残っているというよりは、街そのものが熱を帯びているようだった。
 辺りは暗かったが、ぼんやりとした橙色や青色の明かりを、背の低い建物たちが各々に灯していて、騒がしい雑踏の入り交じりを視認できる程度には明るさが確保されていた。
 遠巻きに響くバイクのクラクションや、時折大きくなる喧騒の中の笑い声は、まるでよそ者の彼女らを拒絶するように、陰湿に嘲ってみせた。
 運転手の男は少女たちに荷台から降りるよう指示し、先立って歩き始めた。言われるがまま荷台から降りた途端、ラーニャの足の裏を鋭い痛みが刺した。足を両手で持ち上げ、よく見るとそれは酒瓶の破片だった。皮膚を割いて生ぬるい血液がじんわりと足の裏に広がっていく。遠い場所に来たのだと、ぼんやりと実感した。
 大通りから少しばかり外れた裏路地の角で、運転手の男は足を止めた。そこには、白地だが塗装の禿げてすっかり黒ずんだ三階建てのテナントがあった。シャッターの半分開いた一階からは点滅した蛍光灯が気味悪く光っている。
二階との境目には看板が張られており、錆びて文字が欠けていたが宿屋であることはどうにか読み取れた。
 運転手の男は、少女たちを店の外に待たせて、奥から姿を現した宿の女主人らしき小太りの中年女と何やら話し込んでいたが、暫くして皺くちゃの1000ルピ紙幣を何枚か握りしめ、不服そうな顔をして店から戻ってきた。
「何をしている、さっさと中に入れ」
 男はぶっきらぼうに一番近くにいた少女の背中を押して、店の看板を指さした。
 促されて少女達はおずおずと店へと入っていく。それを見て男はため息をつくと、足早に裏路地を去っていった。
「まったく、10人がノルマだってんのに半分しか連れて来やしないんだから、二束三文もらえるだけ感謝しなってんだ、ねぇ」
 小太りの女は勝ち誇ったように笑みを浮かべながら、同意を求めるように入ってきた少女達に目線を合わせた。
「あの、私たちは何をすれば」
 ラーニャの隣にいた赤毛の少女が、恐る恐る手を挙げて尋ねた。すると小太りの女は微笑むと、赤毛の少女の耳元に顔を添え、ゆっくりと囁いた。
「ふふ。耳をよおく澄ませてごらん。聞こえてくるはずさ。……波のようにうねって、寄せては返す、声のさざめきが」
 赤毛の少女はいまいちピンと来ていない様子で、依然不安げな表情のまま中年女を見つめている。
 中年女は、じきにわかるわよ、とだけ告げて、小間使いらしき男に赤毛の少女を預けた。
 赤毛の少女は男に手を取られ、奥の部屋へと通されていった。
 それから一人ずつ、簡単な問答をしたのちに、同じように少女たちは奥の部屋に連れていかれた。ラーニャは最後の番だった。
「あんた、その被りもん、北部の出身者だね。えらく遠いところからきたもんだ。北部なんて戒律のせいで特に取り締まりが厳しいじゃない? まあ確かにそういう意味ではここまでくるのも道理よねぇ」
 そういって中年女はラーニャの首筋に手を伸ばし、ヘッドスカーフの裾をつまんでびらびらと揺らした。
「はぁ」
 ラーニャは、その膨れた手を横目に気のない返事をする。
 すると、中年女はわかりやすく不機嫌になって眉をひそめ、耳に飾った銀色のピアスを、自らの親指で勢いよく弾いて余りある感情を発露させた。
「アンタは! どうなのって聞いてんのよ。こちとらねぇ、神だかなんだかに操を立てられたんじゃたまったもんじゃないのよ。まったく察しの悪い子供はこれだからいやね。だいたい……」
中年女は長々と愚痴を垂れ始めた。弾かれたピアスは未だ勢い収まらぬまま、無力にその身を揺らし続けている。
 その様子がなんだか可笑しくなって、ラーニャはすこし笑ってしまった。それが余計に怒りを買った。
「とっぱらっちまいなよ、こんなもの!」
中年女はラーニャの頭をむんずと掴むと、強引にスカーフを剥いだ。
「あっ」
 解き放たれた髪が肩に広がる。ラーニャは咄嗟に下を向いた。
 中年女はおもむろに、うつむいたその顎を片手で力強く持ち上げると、まじまじとラーニャの顔を見つめた。
「なんだ、男でもいんのかい。年端もいかないってのに、生意気なもんだね」
 中年女は、持ちあげた手の指先に挟まれたラーニャの頬を、からかうようにグニグニと揉みしだいた。
 ラーニャは唇を突き出さされたまま、無言で中年女を睨む。
「怖い目しちゃいやだよ。でも図星みたいだねぇ。今はそいつのことで頭がいっぱいかもしれないけどさ。でもねそれもいつしか掠れちまって、気が付いたらあそこにしか男はいなくなってる、そんなもんさ」
 そう言ってふいに中年女は顎の拘束を解いた。ラーニャはバランスを損なって前によろける。
「行きな」
振り返る前に背中を中年女が叩いた。思わず体を強張らせたが意外なほど力なく、柔らかく肌を伝った。それに戸惑う間もなくラーニャは、小間使いに手を引かれて奥の部屋へと連れられて行く。
人が消え静まり返ったフロントに一人残された小太りの中年女は、既に日も跨いだ掛け時計の短針をぼんやりと見つめながらぽつりと呟いた。
あたしもそうだったものね。と。


何日か経って、少女たちが接客も業務もあらかた覚えたころ、ラーニャに初めての客が入った。客に手を取られて上がる階段は、小間使いの男に連れられた時のそれとは比べ物にならないほど憂鬱で心もとなかった。
目を瞑って、何度もセリクを思い浮かべた。彼は笑顔が絶えない男の子だった。誰とて幸の薄いと感じるようなそんな境遇の割には妙に幸せそうな笑顔が不思議で、しかし無性に惹かれたのを覚えていた。だから、そんな笑った時の顔の輪郭や、それに伴って聴こえるよく通った声色の機微や、ゆったりとして温かい息遣いのリズムといった類のものを、懸命にありありと思い起こそうとするものの、なぜか湯気で曇った浴室の鏡のように、不明瞭な靄を取り払おうと躍起になる程、瞬く間にイメージがぼやけて霞んでいってしまう。
ベッドに仰向けに寝そべる毛むくじゃらの体に、跨る足は震えておぼつかない。
気まずそうにその様子を見守る客に、引き攣った笑みを返した。客が姦賊のようになってしまわぬよう配慮したつもりだったが、かえって逆効果だった。
漠然と凄いものだと思っていたセックスは、意外なほどあっけなく始まった。
少しだけ痛かったが、血はたいして出なかった。きっと運が良かったのだろう。
途中からは恐怖も心細さも薄れて、どこか冷静に、昂って腰を打ち付ける客を観察している自分がいた。互いの愛情を確かめ合う行為と聞かされていたが、よくわからなかった。
結局初めての客には散々気を遣わせて、幾度となく優しい言葉をもらった。乱暴にされたほうがまだ良かったと思った。無性にみじめになって、客が帰った後、一人で泣いた。
その夜、ラーニャはここにきて初めて手紙を書いた。色んなことを伏せたが、新しい生活が始まったこと、元気でいること、遠く戦地にいるセリクの生活を、想像で思い浮かべたりしていることなどの旨を綴った。だが約束をちゃんと覚えていることも文末に欠かさず書き添えた。無論、ろくに教育を受けていないラーニャが饒舌になれはしない。つたない語彙、歪な文字、文法はまるでめちゃくちゃ。だが言葉というのは不思議と、飾り気を削れば削るほど芯を食う。ラーニャの文章はそういう文章だった。
初仕事で疲弊しきっているはずなのにこのタイミングでラーニャが筆を取ったのは、セリクを想う気持ちが故というよりも、文字にしておかないと不安だったからだ。
あんなに軽々しく想像と違ったセックスのように。
あの時の、中年女の枯れた声色がずっと肌に纏わりついて離れなかった。

「懲罰房に入れられた理由はわかるか? セリク」
 上官は重い鉄扉から鍵を引き抜くと、鉄格子の隙間からセリクに声をかけた。
「手紙を、送ろうとしたからです」
セリクは、釈然としないといった表情のまま座位を崩さず格子を見上げる。
「そうだ。お前は一兵卒に過ぎないが、それでも軍の情報を知らないわけではないだろう。もし外にそれが漏れたらどうなる。そういうことだ」
「でも、外からの手紙は、読ませてくれるんですね。お優しい」
 セリクはシャツの胸ポケットから小さく折りたたんだ手紙を丁寧に広げ、見せつけるようにして掲げた。
「外部の人間は管理できないが、お前は違う。俺の許可がなけりゃ、ここを出ることすら叶わない、そうだろう?」
 上官は仕返しとばかりに、懲罰房の鍵を見せつけるように小刻みに揺らした。
「いつか噛みついてやりますよ。僕が貰った報奨金をこまめに貯めているの、知っているんでしょう? いくらでここの見回りが買えるか楽しみです」
 そういってセリクは不敵な笑みを浮かべるが、上官が意に介す様子はない。
「嘘をつくな。……本当はもっと違うことの為に貯めてるんだろうが。大事に使えよ」
「ばれましたか。なに、僕も年頃ですからね。性欲のはけ口に質のいい売春婦でも買おうというだけの話です」
「……それも嘘だな。お前ぐらいだ、軍のキャンプに来た慰安婦を一度も抱かなかったのは。きっとお前にとってセックスは快楽を得るためのものじゃなく、例えば愛情を確認するための行為だったりするんだろ?」
「なんだ、全部お見通しじゃないですか。まったく、柄にもなく嘘なんかつくもんじゃないですね。……ああ、でもここをさっさと出たいという思いだけは紛れもなく本当ですよ」
「そういうことを言うやつの為に、懲罰房があるんだよ」
 上官は握っていた懲罰房の鍵を腰に差すと、そのまま扉の前から踵を返し、そこで思い出したかのように立ち止まった。

宿に連れてこられて、どれぐらい経ったろうか。
春が3度は訪れて、2度ほど子を流した。おそらく、それぐらいの時間だった。
初めて送った手紙の返答は未だ来ないままだ。
最近のラーニャは、よく客に昔話を語るようになっていた。
今日もまた、見ず知らずの男と共にベッドの縁に腰掛け、思い出話に花を咲かせていた。
「でね、せっかくサソリの尻尾、毒針の部分を切り落としたのに、すっかり忘れて尻尾の攻撃を腕にもらって慌てふためいてね、その様子が可笑しくってとっても笑っちゃった。その子、ちょっとそういう抜けてる所あるから」
「へえ、好きだったんだな、そいつの事」
懐かしそうに目を細め、窓越しに夜空を眺めるラーニャの横顔を見て、客は言う。
「でも今は、あなたの恋人だよ」
 ラーニャは横を向き直り、客の胸に手を添えて答える。
「あと20分?」
「うん」
 そりゃうれしいな、と言って客は自らの胸を愛撫する手をそっと外した。
「でもさ、俺はそれ違うと思うんだよね。だってさ、セックスは愛を確認しあう行為なわけだろ。なら、俺は君の愛を感じて、君にも俺の愛とやらが届くはず。なぁ、そんなことなかったろ?」
「……冷たいね」
「俺は愛を貰いに来たわけじゃない。身体を買いに来ただけ。ああ、金を使ってな。君も誰かに売られてここに来たんだろ? それに愛を感じたか? ……金を媒介にした性行為なんて、単なるごっこ遊びだよ。だから俺らは間違いなく恋人ではないし、セックスが愛を確認する行為ならばこれはセックスですらねえってこと」
 客はラーニャの顔にかかった髪をかき上げて、流れるように唇を重ねた。絡まる客の舌は唾液の匂いがして唾液の味がした。とても深いキスだったが口の中だけで終わった。
 咄嗟に客の顔を突き離して、ゆっくりとそのキスを反芻した。鈍くて剥き出しな味がした。
粗雑に胸が絞られたような気がして、辛くなった。
「そっか、そうだったんだ。私、知らなかったよ」
 ラーニャは口元を手で覆って、今まで行ってきた性交渉の数々を噛み締めるように、押し殺した声色で呟いた。
「そう。だからそういう意味じゃ君もまだまだ、純潔な乙女なんだぜ」
客はそういってラーニャの頭をわしゃわしゃと揉みしだいた。つられて視界がぐにゃぐにゃと揺らぐ。感覚が、揺らいでいく。
「あは。笑えるね、それ」
 ラーニャはそう言って自らのすっかり黒ずんだ乳首を一瞥し、自嘲的な笑みを浮かべた。

どれぐらい経ったろうか。
数えきれないほどの客に抱かれた。それぐらいの時間だった。
ラーニャは梅毒になっていた。
梅毒、といっても然るべき治療をすれば何のことないありふれた性病。
が、ここではそんな処置は行われない。高価な治療薬を処方し続けるよりも、さっさと手離して身寄りのない少女を新しく拾ってくる方がよっぽど安上がりだ。
 それを知るラーニャは、店の誰にも気づかれぬように口元や手足の発疹を懸命に隠して、なんとか接客を続けていた。
隠し通すのは、他の女の子では難しかったかもしれないが、ラーニャは出身地の風習のお陰で幸い布に肌を包むことが出来たし、接客においても必要以上に部屋を暗くすることでそれなりに誤魔化しが効いた。
しかしそれも、おおよそ時間の問題。発覚が先か、性病に蝕まれる身体の限界が先か。どちらに転んでも未来は残っていない。
 とはいえ、もはやそれで良かった。金を媒介にした性行為に愛情が無いと知ったあの日から、娼婦としての人生が始まってしまったその日から、自らの将来に期待することをやめてしまったのだ。
 それでも、過去には一抹の希望を残していた。それが、セリクとの約束だった。
しかし返事を待つ便りの数が増えるたびに、何人もの客に教わった語彙で言葉が丸みを帯びていくたびに、漠然と残っていたそれも徐々に擦り減っていった。空虚なだけの生活が続いた。そんな、ある日のことだった。
最近は痩けたラーニャへの指名も減っていたが、珍しく今日は店開きから客が付いた。
ラーニャはいつものように待機部屋を出てフロントに向かった。歩を進めるたびに関節が軋むのを感じる。体調は慢性的に悪いままだ。免疫も大分低下した。頭上を照らす妖しげなトイピンクの光も、あと何度も浴びることはないだろう。
鼻唄でリズムを取って、指先で壁をなぞって歩く。昔からのルーティーン。こうすると何故だか心が落ち着いた。視界が遠巻きに客を捉える。
足が、不意に止まった。狼狽して膝から崩れ落ちそうになった。
 ラーニャの双眸に映るのは、ここらでは珍しい濃い褐色の肌、癖のある縮れ毛の髪。口元のほくろ、高く通った鼻梁、そして澄んだ瞳。
 セリクだ。間違いはなかった。軍服を着ている。相変わらず兵隊ではあるようだ。フロントデスクに肘を置いて、もう中年をとうに過ぎて初老に差し掛かった女主人と、フランクな雰囲気で談笑している。
 その光景を眺めながらラーニャは、身動き一つせず固まっていた。そのぐらい擦り減った感情を呼び戻すのに時間がかかった。
 じきに、滞っていた思いが体を巡りだしてからは、すぐにでも駆け寄って、名前を呼んで、力いっぱい抱きしめたいという気持ちが芽生えた。
 が、体は動かなかった。それが果たして正しい愛情なのかどうかが恐ろしく不安になってしまったのだ。
 とはいえ、ここに留まるのも拒絶しているように映る気がしたから、押し出されるように彼の元へ歩み寄った。
 間近で見るとわかりやすい。まっすぐ伸びた体躯も、低く音を震わす声色も、昔とはまるで違う。彼はいつしか青年になっていた。
「カディラちゃんだよね? 写真よりも少し痩せているようだけど、でも綺麗だ」
「え……、え、ええ」
 聞きなれた源氏名に、しかしこの上なく違和感を覚える。思考が会話に呼応しない。
 動揺を隠して、無言で客の手を取った。身体を密着させるマニュアルも忘れて、ただ手を繋いだまま階段を上がる。厚底のヒールで段差を踏みしめ、コツコツとリズミカルに音を弾くごとに、散らばった思考がしだいに落ち着き始めた。
源氏名で、呼ばれた。含みのある言い方でも無く、ユーモア掛かったニュアンスも無かった。認めたくなかった。ただ、明らかだった。
セリクは、自分のことを忘れていたのだ。
そう思い至った瞬間、臓器の張りが緩んでズンと重くなった。血液の代わりにどす黒いタールが体内を蠢いているような気分だった。
 送った手紙の数々、その内容を思い起こした。語りつくした記憶のパーツを必死に掻き集
めた。その量が多いほど、その差異が浮き彫りになってみじめだった。そんな滑稽な自分を思うと狂おしくやるせない気持ちが沸いた。握る手のひらのゴツゴツした感触も、どこか異質なものに思えて気色が悪かった。
 個室に入って、橙色の薄暗いランプを灯した。そこにぼんやりと浮かび上がる影を、ラーニャは冷めた目で一瞥する。
 砂埃で汚れた迷彩柄の軍服を脱がせて、指先で胸板を愛撫していく。よく引き締まって、張りも良い健康的な肌だ。
 発疹が、ひどく疼いた。濁っていた情緒は既に纏まりを持った怒りへと変わっていた。
 郷愁も、愛しさも、切なさも、すべて忘れて幸せそうに笑みを浮かべて。性欲だけは身勝手に発散しようというのだろうか。
許せない、と頭の中で文字にするたびに堪え切れない憎悪がふつふつと沸いてくる。それが氾濫しそうになって顔がゆがむのを必死で抑えた。
ラーニャは意を決して腕に力を込め、セリクをベッドに押し倒す。
薄手のローブを肩からずり落とすように脱いで、腹の上に跨る。蝕まれた肉体が露わになって、仰向けに見上げるセリクの視界に壁となって聳えた。
ゆったりと指を這わせて、自らの乳房を艶めかしく持ち上げる。至る所に斑点があるが、この暗さではきっと目視出来ないだろう。
これだけ梅毒に侵された身体、抱けば一発で感染するに違いない。すべてを忘れたこの男には、名も知らぬ娼婦からこっぴどく性病を移されたという忘れられない記憶を植え付けてやろう。そして代わりに自分は、この男を忘れて柵なく余生を過ごしてやろう。相応しい罰だ。そう考えると愉快にすら思えた。
身体を覆いかぶせ、ねぶるように唇を重ねた。余すことなく口の中を貪ったが相変わらず唾液の匂いと味がするだけだった。
密着させた身体を添わせて口元から首筋、胸、腹と舌で道筋を描いて、太腿の付け根まで愛撫を終える。そのままペニスを咥えようとして、思い留まった。中途半端に膨らんだ陰茎を指先でつまんで、擦るように刺激を与える。するとそれを快感だと勘違いした一物は、身を反り立たて、あらん限りの血を滾らせては火照り、その見苦しい劣情をあらわにする。
ラーニャは擦る刺激の裏で、密かに爪を立てた。それで付いたのは血も流れぬ程の、小さな傷。だが、これで少しでも感染しやすくなるだろう、そんな目論見を胸に宿し、ほくそ笑む。さて後は挿れるだけだ。
潤滑油を何滴か垂らして、ペニスを自らの股をあてがう。火照った熱がじんわりとラーニャの肌を伝った。
ふと、違和感を覚えた。
その熱が引き金となって、何故だかはるか昔の情景が、瞬く間に脳裏に広がった。
高熱を出して寝込んだセリクの傍で、一緒に肌を寄せ合って眠った記憶。その肌の温もりを思い出していた。束の間だったが、何より幸せだった。
だから、ラーニャは、股間に帯びたその熱が不覚にもぬくいと感じてしまった。
声にもならない息が漏れた。
つられるように胸がじんわりと熱を帯びる。目頭に、鼻の奥に、とめどなく熱が流れた。
忘れられるわけがなかった。そんな些細なきっかけで思い起こしてしまうほど、心の中で大きな存在だったのだ。それに気づいてしまったから。
 憎悪は崩れ去った。セリクは崩れてくれなかった。
とたんに彼と、セックスをしたくなくなった。身体を蝕んだ穢れを、移したくない思いでいっぱいになった。
「……ごめんなさい。わたし、ほんとは病気もちで……だから、あなたとは」
 股ぐらを外して、膝の上にへたり込む。情けなくてセリクの顔を直視出来なかった。
滲んだ視界に褐色の太ももを映して、ぼんやりと思考を巡らせる。
こんなこと、前代未聞だ。きっと店に苦情が入るだろう。それはもう、仕方ない。ここで止めたところで、セリクが自分のことを思い出す訳でもない。それも仕方がないと思った。
でも、彼が健康で、この先もつつがなく生きてくれるなら、もう、それだけで十分だった。
セリクは、その様子を見て、おもむろに上体を起こすと、ラーニャと向き合って背中に腕を回して心臓の裏側をそっとさすった。
「大丈夫」
その一言だけを残して、そのまま抱き合うような形でベッドへ再び倒れこむ。荒れた肌を優しく指先で撫でて、耳元で吐息を漏らした。
 濡れるまで外陰部やクリトリスを弄って、それからペニスを膣口に当てがう。
 ラーニャは、いまだ性病に気が引けてセックスに躊躇を残し、股を閉じようと少しだけ力を入れたが、彼はそれをほぐすように強く、それでいて穏やかにラーニャの中に入ってきた。
「あっ」
 ラーニャは思わず声が漏れた。温かくて、指先の愛撫よりも強く肌の接触を感じた。彼はそのまま暫く動かずに留まって、やがて打ちつけるようにストロークを始めた。
 悲しいような、苦しいようなよくわからない複雑な気持ちになった。多分少しだけ嬉しくもあった。密着なんかよりもっとすぐ傍にセリクがいる。もし愛を確かめているならこれが一番近い距離のはずなのに、いつになってもそれがあやふやなままなのは、股を擦る性器も、触れ合う肌の温もりもきっと実体のない虚像に過ぎなくて、自分の気持ちを届けるには限りなく遠くに隔たれているからに違いない。たった800ルピ、それだけのせいで。
分かっている。これは娼婦と客が金を媒介にして、行うただのごっこ。愛の確認ごっこ。愛を決して知ることはないし、届くこともない。そもそも愛なんてどこにも、存在しなかったのかもしれない。
それを悟った途端無性に切なくなって、彼が入ってくる振動を感じるたびに押し出されるように涙が溢れた。気付かれたく無かったから、両手で顔を覆って恥ずかしいと言った。
するとセリクは自らの頭をラーニャの耳元に運んで、より一層深く身体を重ねた。
それによってラーニャの視界はセリクの首筋を輪郭に、壁紙が破れてむき出しになったコンクリートの凹凸へと移り変わる。それを遠目に眺めながら業務用の吐息で隠してこっそりとため息をつく。娼婦であることを余計に意識してしまってそれもまたやるせなかった。
それから間も無くして終わりの時間が来た。そこから先も大して会話は生まれなかった。そのせいか静まり返ったこの部屋に、服を着る際に僅かに漏れる留め具の金属音や、上着の擦れる音なんかが一層きわ立って響く。それを耳にしていると、何故だかどんどん気持ちが急いて、もやもやした焦りが沸いてくる。     
何を話すでもないのに、会話をしなくてはいけないような衝動に駆られた。
 そんな気持ちが声よりも先に動作に乗って、背を向けドアを跨ぐセリクに向けて動かされるように手が伸びた。しかしラーニャの手は、それを繋ぎ止められるほど長くは無い。
 きっと去り際に何かあるのではと、心のどこかで期待していたのだろう。
 彼は、ドアの軋んだ開閉音だけを部屋の中に残して、早々と宿を去っていってしまった。

ラーニャはそのまま閉じ切った扉の取手を無心で見つめていたが、立っているのも所在なく思えたので、倒れこむようにベッドのスプリングに臀部を弾ませて座った。
そこから寝室を、視界の赴くままにぼんやりと見渡してみたが、客が去って一人残された程度ではあまり広くは感じなかった。
きっとこれから少しずつ広がっていくのだと思った。
部屋の隅に置かれたうっすらと砂埃の付いたコップに水を注いで、勢いよく煽った。案の定細やかな砂が混じっていて癖のある酸味がしたが、泣き枯らした後だったからか、案外スムーズに喉を通った。

あくる日、慌ただしい足音と共にラーニャのいる寝室の扉が開け放たれた。
そこに姿を現したのは、やはり女主人だった。
「あんた、まだ寝ていたのかい。まあちょうどよかったよ、ほらこれ」
 そういって、女主人は厚みを持った封筒をベッドに座るラーニャに向けて放った。
「……あー、ま、今までのボーナスよ。うまいもんでも食うといいさ」
 何故だか歯切れ悪くそれだけを伝えると、女主人はさっさと部屋を出ていった。
 渡された封筒を確認すると20枚ほどの1000ルピ紙幣がぎっしりと中に詰まっていた。こんな大金を見るのは初めてだったので、しばらくの間はその重みや質感を手のひらで転がし、堪能した。しわのない紙幣の手触りは新鮮でなんだか感慨深かった。
 何故このタイミングで女主人がお金を渡されたのかラーニャには理解ができなかった。
 憐れみをくれるぐらいなら、最初から身体を売らせないでほしいと思った。
おそらくこれだけあれば、性病の治療は勿論のこと、ここを出ていくことすら叶うだろう。少しばかりなら、贅沢することも出来るかもしれない。なんという僥倖だろうか。彼女の人生はこの20000ルピを元手に転機を迎えるはずだった。
だが、そうはならなかった。
決してこれは己のプライドの為だとか、無欲を信条にしていたからだとかそんな大層な理由ではなかった。
ただ、ラーニャは何度も何度も余りあるほど数多の確認作業によって、痛いほど理解してしまっていた。一度金を媒介にしたら最後、そこに愛情など一ミクロンすら残りはしないということを。そんなもので幸せになれるなら、今だって限りなく幸せでなければおかしい。
黒ずんだ性器も、いびつな乳房も、梅毒の至る所まで、すべからく愛しいと思えなければおかしいのに、こんなにも醜くて、汚らわしくて、反吐か出るほどに嫌気が差すのは一体何故なのだろうか。薄っぺらい紙きれの束でそれを知れるのなら是非とも教えて欲しかった。
むしろこちらから示してもいいだろう。これが答えだ。
そういわんばかりにラーニャは、封筒ごと紙幣をビリビリに破き細かく屑にして捨ててしまった。


「5、6、7、これで全員か、ババア」
 トラックのエンジン音を鳴らしながら、運転手は車窓から身を乗り出し、荷台に乗る娼婦の数を確認した。
「ああ、そうだって言ってるだろしつこいね」
 女主人は耳元のピアスを指でこねくり回しながら鬱陶しそうに応じる。
「あの、被りもんの娘はどうしたんだ?」
「2か月くらい前にね、逝っちまったよ。末期の梅毒さ」
「……そうかよ。まあそれにしても、利益だけにゃあんだけうるさかったお前が、宿をたたむことになるたぁなぁ」
 運転手はそういって意地の悪い笑みを浮かべた。
「うるさいねぇ、戦争が始まっちまったんだ、しょうがないだろ。それよりもアンタ今度は前払いで金渡してやってるんだ、しっかり売り先に届けておくれよ」
「へいへい。こちとら誰かさんのおかげでメスガキ共を運ぶのには慣れてるんでね。しっかりやらせてもらいますよ」
「口が減らないね、さっさと行かないとひっぱたくよ」
おお怖い、と肩を震わせて運転手はアクセルを踏んだ。
トラックはそのまま路地裏を抜け、繁華街を抜け、今度は西の都へとその身を走らせていく。
「ねぇねぇおじさん、西の都は戦争ないの?」
 一番年の若い少女が、荷台から運転手に尋ねた。
「……そうらしいな。だからほんとに平和なら、西の都に移り住もうかとも思ってんだ、この前の自爆テロで嫁さんに娘を失ってるからよ。しかも突っ込んできたのはハタチにもならねえ青年だっていうじゃねえか、嫌な世の中だぜ。だがお前らを売れば、移住ぐらいたやすい程のまとまった金が入る、だから」
「ねぇ見て! 砂丘! 夕日できれい! 砂丘!」
運転手の声を割いて、その少女が声を上げた。指さす方角には夕日によって茜色に染まった荒野が泰然とした佇まいで広がっている。
「はぁ? こんな場所に砂丘が見えるわけねえだろうが」
「ほんとに、ほんとだもん! ほんとにほんと!」
少女は一向に主張を曲げようとしない。
「わーったよ、ちょっとだけ、近づいてみるか? もしかしたら、本当にあるかもしんねえしな、砂丘」
声の収まる気配がないのを察した運転手は、ついに折れて右にハンドルを切る。
遠回りになるが、右に逸れても西の都に行くルートはある。こんなことで少しでも、少女の気が紛らわせるなら、少しぐらい寄り道してもバチは当たらないだろう。そう思った。
 そのままトラックは、夕日で車体を朱色に染めながらまっすぐに荒野を抜けていき、エンジン音だけを元居た街に残していつのまにか砂丘の向こう側へと走り去っていってしまった。


小説のコメントコメント
この作品の著作権は、作者である 今井 舞馬 さんに帰属します。無断転載等を禁じます。

どこか遠い国で、幼なじみの二人がすれ違うお話です。
2019/10/20 15:54 今井 舞馬



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