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現代小説/歴史小説

『サーカス』

椎橋もえぎ著



暗闇の中でほんのりと照らされたステージに空中ブランコが揺らめく。四肢をしなやかに反らせたサーカスの団員たちが次々にブランコからブランコへ飛び移る。中には空中で身体を丸く一回転させながら華麗に舞う者もいた。私はハラハラした気持ちと、次に何が起こるのだろうといった興奮で胸がいっぱいになる。両目を精一杯開きながら一瞬たりとも見逃さないように、必死でそれを見つめた。時折、夢中になりすぎて自分が一人ぼっちに取り残されたのではないのかと不安になり、両脇を振り返る。そこにはビールを片手に大きな口を開けてイビキをかく父親と、それが恥ずかしくてならないといった顔をした母親がいた。母の父を見つめる視線は、さっきまでの高揚とした私の気持ちを急激に冷ました。
あの母の怒りと恥と情けなさが混ざり合った瞳を私は忘れることが出来ない。空中ブランコはフィナーレを迎え、会場に拍手の渦が轟いていた。

初めて芙沙子さんと出会ったのは木漏れ日に満ちた公園だった。彼女は煉瓦造りの椅子に腰掛けながら編み物をしていた。籠の鞄の中から伸びた一本の糸を複雑に織り込んで白いレースを生み出している。時折、金色の棒針が太陽の光に反射してきらりと輝き、レースの白さを際立たせた。クリームパンのようなふっくらとした両手がせわしなく動き、網み目を作る。その一連の動作には無駄がなくとても静かだった。春風のそよぐ公園の中で芙沙子さんは空気に溶け込んで春そのものになっていた。
家出をしたばかりの私は、時間を持て余していた。公園の中には風に揺られるブランコと芙沙子さん以外に動きを見せるものはなかった。
「何を作っているんですか」
心細さや不安でいっぱいの私は温もりある春風にそっと手を触れてみたくなった。
「クロッシュレースよ。コースターにいいかしらと思って作っているの」
芙沙子さんは編む手は止めずに、でもこちらに視線を伸ばして微笑んだ。その微笑みとレースの精巧な編み模様は私の心を優しく包み込んでくれた。芙沙子さんは編みかけのコースターから伸びる一本の糸より白い髪を風にそよがせる。目にも止まらぬ速さで糸を編み上げると、完成したてのコースターをプレゼントしてくれた。目眩がするほど美しいレースの連なりは陽だまりの匂いがして、その晩私はそれを握りしめながら眠りについた。

私にとって母親とは世界の全てだった。 母の側にいれば安心だと分かっていたし、母から離れることは命の危険を伴うと感じる程、恐ろしいことだった。ひと時も離れたくないと願う程、私は母に依存していた。
父親は毎晩酒に溺れていた。でもそれはアルコール依存だとか、そういった大層なものではなかった。けれど月に一回は路上で泥酔して、財布をすられるなんてことはしょっちゅうだった。父は酒にしか興味を示さず、家庭のことや、娘である私のことなどにちっとも関心を示さなかった。だから、運動会の親子リレーや、遊園地へ遊びに行く時は、いつも母が全てを仕切って、スケジュールを立ててこなしていた。そんな母を私は尊敬していたし、愛していた。
幼稚園へ行く時、母から離れることを世界の中で一番の恐怖と感じていた私は、いつも泣きながら登園していた。ここで別れてしまったら二度と会うことが出来ないのではないかという不安が私を襲った。側に母の温もりがないことへの恐ろしさが毎朝私を支配していた。
背が伸びるにつれて親離れするのが一般的なのだろうけど、私は二十歳を越えても母への依存を抜け出すことが出来なかった。ボーイフレンドやサークル活動に勤しんで子も親も互いにひとり立ちするのが当たり前なのだろうけど、私たち親子は違った。互いに依存しあってもつれ合い、複雑に絡み合って歪に結ばってしまっていた。
そのことが原因で私は食べ物を受け付けない身体になってしまった。一日中部屋に閉じこもり、最低限だけの水分を取ってあとはずっと眠っていた。母は心配をして菓子パンやお粥を差し入れてくれた。でも私は部屋に誰かが侵入してくるのが嫌で母を拒み続けた。
そんな日々が何ヶ月も続いたある晩のことだ。枕元に気配を感じてうっすらと目を開けると、暗闇の中に母が立っていた。呪文を唱えるように私への悪態を延々と呟き、ベッドの足を蹴飛ばす。母の呪いは明け方まで続いた。私は母が部屋から出て行くのを感じると、急いで荷物を詰め込んで家を飛び出した。久しぶりの外の景色は朝日が禍々しい程きらびやかで目が潰れそうだった。

芙沙子さんのいた公園から祖母の家まではそう遠くなかった。祖母は大きな荷物を抱えた私を優しく迎え入れてくれた。
父方の祖母のことが母は嫌いだった。まだ私が生まれるずっと前から祖母に嫌がらせを受けてきたと母は事あるごとに私に耳打ちした。私にとって祖母は優しくて大らかな存在なのに母の目にはそうは映っていなかった。意地悪で醜い自分の敵。だから母は私を祖母の家へ遊びに行かせるのを良しとしなかった。
十何年ぶりに再会した祖母は以前会った時よりも腰が曲がってふた回りほど小さくなっていた。腕は今にも折れてしまいそうなほど細く、足取りはおぼつかない。でも意識ははっきりしていて私なんかよりずっと喋った。私は夕飯の準備を手伝ったり洗濯物を干したりして互いの時間を共有した。何故家から出てきたのかという話は二人ともいっさい語らなかった。そうしてぬるま湯に浸かっているような時間が続いていった。

芙沙子さんは会う度に違う編み物を作っていた。ある時は雨粒がモチーフのストールだったり、また違う日はブレスレットだったりした。こんなに沢山の編み物をハイペースで紡ぎ出す芙沙子さんは魔法使いのように神秘的に見えた。
「このブランコで小さな頃遊んだわ」
私は錆び付いた鎖の手触りを思い出しながらそう呟く。
「一生懸命漕いだわ。天に届くんじゃないかってほど」
「空には近づけた?」
芙沙子さんは網目を増やしながら尋ねる。
「いいえ。途中で鎖から手が離れてしまってそのまま地面に激突したわ」
顔面を強打した後の鉄くさい血の味と痛みを思い出しながら舌を出しておどけると、芙沙子さんがホクホクした笑窪を浮かべて笑った。
「それはさぞ痛かったでしょうに。じゃあ次にいつ怪我しても大丈夫なように これをあげる」
そういって芙沙子さんは鞄から四つ折りのハンカチを取り出すと私の両手へ渡してくれた。そのハンカチは麻の生地の周りに美しいレースが編み込まれているものだった。昔話の泥臭さとは到底似合わないようなエレガントな作品で私には上質すぎた。私はそれを受け取ると、心の中にある擦り剥けた傷口にそっとあてがってみた。
「これがあれば平気ね」
芙沙子さんにお礼を言うと私は静かに瞳を閉じた。大きく息を吸うと草木の濃密な青い香りが鼻腔に広がった。

夢の中で幼い私が暴れている。精一杯何かを伝えようとしているのだけれど、どうやって表現すれば良いのか分からなくて泣いている。喚いている。一見駄々をこねているように見えるけれど、そうじゃない。私はこうしたい、と言いたいだけ。ただそれだけ。なのに言葉が出て来なくて両腕を回して地団駄を踏む。次第にこのままだと母親に迷惑がかかるのではないかと思って怖くなる。涙を拭い、笑顔を作ってジョークを飛ばす。
父と母は離婚寸前だった。けれど互いに顔を向き合って問題を解決しようとするそぶりは見せなかった。父はアルコールに頼り沈黙を貫き、母は我慢している事柄全てを私に流し込んだ。だから私は家の中で暗い出来事が起きても、気が付かないふりをして母を笑わせた。馬鹿なふりをした。私が馬鹿でいるだけでいい。母が私の悪口を言っていても、鼻であしらっていても、気が付かないふりをした。でも心は深く抉られて傷口は膿でぐじゅぐじゅしていた。だけどそれも知らんぷりして私は踊った。愚かな道化師となって家の中を笑いで湧かせた。
それが理由で私は人と話し合って何かを解決することを苦手とした。自分の心をさらけ出すことに恐怖を感じた。信頼と言うものがよく分からなかった。それは母の父に対する態度からの影響だった。だから親友なんてものは私にはいないし、恋人も付き合ってすぐに分かれてしまうことが多かった。私には母親だけしかいなかった。母親だけが全てだった。

祖母の家で過ごす時間は、生温く過ぎていく。老人特有のなんとも言えない匂いや皮膚のたるみ、重い足取り全てが時間に溶け込んで時計の針の進みを遅らせる。ある時は空豆の鞘を二人で千切ったりした。空豆の鞘を割くと、中にひよこのような白い綿毛がびっしりと敷き詰まっていて、黄緑色の丸い空豆たちが身を縮めてその繭に包まれている。突然の外の光に、眠りの邪魔をされたかのように空豆たちは飛び上がる。これから茹でて君たちを食べてしまうなんてあまりにも残酷だと思いながら、驚く空豆の顔色が面白くて鞘を開く手は止まらなかった。中には繭の中で黒ずんで小さく萎びた空豆がいて、私はそれを見つけると祖母の顔先に持っていって大袈裟に驚いたりしてみた。
私には空豆の鞘がサーカスのピエロが履いている靴のように見えた。細くて先っぽが、くるんと上に曲がっている。これを履くピエロの顔は青白いのだろう。裂けたように釣り上がる真っ赤な口と鼻。目の下には星と涙のマーク。あんなに大きな口で笑って飛び跳ねているけれど、心の底では涙を流している。本当は悲しいのに誰も気付かない。みんな馬鹿なやつだと笑い飛ばす。ピエロは自分の存在意義は笑いしかないと思っているんだ。悲しいのに悲しいと言えない。嫌なのにノーと言えない。みんなに見捨てられたら生きてゆけない。そう感じているんだ。
胸の奥がじくじくと痛み出したので私は芙沙子さんに貰ったレースのハンカチをあてがう。これがあれば大丈夫。痛くない。そう自分に言い聞かせながら私は空豆が茹で上がるのを見ていた。

春の息吹が町中を包み込む中、私は公園で芙沙子さんを待った。芙沙子さんはいつも太陽の日差しが本領を発揮し出す少し前に現れた。肉付きのいい手足を上手に操って自転車に乗ってやってくる。彼女はどんなに蒸し暑い日だとしても爽やかな空気と共に現れた。出来たてのパンのようにふっくらとした微笑みを浮かべて私に挨拶をする。自転車を停めると煉瓦造りの椅子に腰掛けて作りかけの編み物を始める。私は芙沙子さんが成すその一連の流れが好きだった。雨の日にうたた寝をする時、遠くでかすかに聞こえる雨音と眠りの世界の空間が互いに行ったり来たりする時のような心地がする。私は芙沙子さんの登場を夢うつつで出迎えた。あんなに家から出ることが出来なくて、一日中眠っていた私が、午前中に行動を起こせるようになったのも、芙沙子さんのおかげだった。
「いつも早いのね」
芙沙子さんはパンジーがモチーフのレースを編みながら心底凄いというような口調でいった。
「最近調子がいいの。ちょっと前まで一日中眠って過ごしていたんだから」
「お日様を浴びるって大切なことよ」
網目を流れるように作りながら芙沙子さんは続けた。
「太陽のことをお天道様っていうでしょ。様がついてる。今こうして私達を照らしている太陽は神様のように崇高なものなのよ」
「だから悪い人は夜に泥棒したりするのね」
私が感心しながら呟くと芙沙子さんは嬉しそうににっこり笑った。
「お天道様に顔向け出来ない、なんてよく言うけどまさにそれね。だからお日様の下で活動する時間はとても重要なの」
私は木々の葉の間から肩に降り注ぐ陽の光に触れた。自身を燃やしながら宇宙に浮かぶ力強い太陽のエネルギーが指先を濡らした。
芙沙子さんはパンジーがモチーフのレースを仕上げると、今度はシュシュ作成に取り掛かった。
「サーカスって見たことある?」
薄暗いテントの中で飛び回るサーカスの団員を思い出しながら私は尋ねた。
「残念ながらないわ」
「一度も?」
「ええ。一度も」
芙沙子さんは本当に申し訳ないというような顔で言った。私は慌てて言葉を慎重に紡いでいく。
「私も一度しかないのだけど。でも、サーカスって凄いの。みんな人間じゃないみたい」
芙沙子さんは私が奏でるサーカスの音色をひとつも聞き逃すものかと決めたように誠実そうな顔をして姿勢を正した。
私は空中ブランコの優雅さや緊張感、火の輪をくぐるライオンの勇ましさや人間のように自転車を漕ぐ熊について語った。
「特にピエロが好きだったわ。場の空気を一瞬にして変えてしまうの。刃物が飛び交うジャグリングなどで強張ったステージもピエロにかかればすぐにハッピーなものになるの」
「ピエロなら私も会ったことがあるわ。大道芸のフェスティバルが開催していて路上でパフォーマンスをしていたの。とても愉快な人だったわ」
芙沙子さんはまぶたの奥に映るピエロを思い浮かべて口元に笑みを作った。
「でもね。ピエロって本当はとても寂しいんじゃないかって、思うようになったの。悲しみを隠しているんじゃないかって」
私はそれをどう表現して良いのかわからなくて、話すのをやめてしまった。芙沙子さんは先ほど出来たパンジーのレースを私に差し出すと
「話したくなればまた今度、続きを話せばいいわ」
と言って花のように笑った。その笑顔は目元にシワが寄ってパンジーそのものだった。

昼飯は祖母の作った焼きそばを食べた。祖母は曲がった腰をきちんと椅子に収めて焼きそばを啜った。細い腕を一生懸命曲げて、焼きそば頬張る姿は涎かけを付けた赤ん坊に似ていると思う。手つきが危なっかしくて見ていて不安定な気持ちになる。けれど少しでも目を離したら食器を落とすのではないかと思って目が離せない。でも、生まれたての赤ん坊と皺と染みで埋め尽くされた老婆とでは比べ物にならない年の重みがあった。その重みからは死の香りが漂ってきて胸が締め付けられるように感じる。
公園から帰ってくる時に玄関で祖母が誰かと電話をしているのを耳にした。私は靴をゆっくりと脱ぎ、息を潜めて祖母の声を盗み取った。口調から察するに電話の相手は私の母親だろう。祖母は何度も
「そんなに謝らないで」
と言っていた。
私は焼きそばを食べ終わると汚れた食器を洗いに流しに立った。スポンジを泡立てると不細工なメレンゲが出来た。
祖母の口から母親から連絡があったという言葉は一つも出てこなかった。私の知らない所で嘗て敵対していた者たちが秘め事をしている。私は一人サーカスに取り残された心地になった。恐ろしくて寂しくて胸が痛む。
私は祖母の分の食器を洗い終わるとソファに横になって眠った。芙紗子さんに貰ったハンカチの匂いをかぎながら夢の世界へ逃げ込んだ。

「人生って一冊の本だと思うの」
午前中だというのに公園はずいぶん気温が高くて蒸し暑かった。
「本を閉じている時は夢の中で、起きたら挟んであるしおりの所からまた人生が続くの」
芙沙子さんは微笑みを浮かべながら私の言葉に耳を寄せる。
「みんな生きていて、漠然と何かに急かされているのはきっと、既に筋書きがあるからじゃないかしら」
 私は話す速度を緩めずに続けた。
「もう結末は決まっているの。だからどんなに足掻いても物語は決まった形に終わるようになっているんだわ」
 捲し立てるよう言葉を吐き出すと胸に刻まれた傷の跡がいくらか薄らいだように感じた。
「そうね。そうかもしれない。閉じている間が夢の中というのはとても魅力的だわ」
芙沙子さんは御伽噺を読み聞かせられた子供みたいに感想を述べた。そして編みかけのルームシューズを私に手渡すとこう続けた。
「でもそうじゃないかもしれない。ほらみて。人生は編み物みたいに無限の可能性を秘めているかもしれないわ」
そうして私に編み物の続きをさせようと作り目のやり方を教えた。
「駄目よ。もうすぐ完成なのに、失敗したら台無しになっちゃう。」
「そうしたらまたやり直せば良いのよ。紐を戻して何度でも自分の気の済むまでやればいいわ」
芙沙子さんはそう言うと真夜中に飲むミルクのように柔らかく笑った。
私は芙沙子さんの手ほどきを受けながらほんの少しだけルームシューズの制作に携わった。右手で棒針を持ち、糸の玉がある左手の人差し指に糸の端っこの方の糸を親指にかける。
「残りの指で二本の糸をしっかりと握るの。しっかりね」
芙紗子さんに言われた通り私は二本の糸を戦場で共に戦った友人の手を握るようにぎゅっと掴んだ。親指の下に向かって出来た輪に棒針を通し、糸をすくいあげると編み物をしているんだ、という実感が沸いた。今度は人差し指にかかっている糸をすくってから、親指にかかっている糸の輪の中を通して針を引き出す。そのまま親指の糸を外してもう一度、端側の糸を親指にかけ、下に向かって引っ張り上げる。これを何度も繰り返して必要な網目の数を増やしていった。芙沙子さんならものの数秒で出来ることを、私は何十分もかけてこなした。途中で指がつりそうになって投げ出したくなった。でも芙紗子さんの生み出す芸術に少しでも関わりたかったので、くじけそうになる度、硬くなった指先に喝を入れた。
仕上げは芙沙子さんが行った。私が編んだ部分だけ網目が歪にみえたが、完成したそれは立派なルームシューズだった。芙沙子さんは新雪のような髪の毛を震わせながら作品の完成を喜んだ。
「二人の合作ね」
「私は足しか引っ張ってなかったけど」
私は嬉しさとも悲しさとも言えない複雑な気持ちで胸がいっぱいになった。だから涙が自分の頬を濡らしていることに一瞬気が付かなかった。慌てて涙の雫を引っ込めようと上を向いても、気持ちとは裏腹にどんどんとめどなく涙が溢れて止まらなかった。芙沙子さんは鞄からレースのハンカチを取り出し私に手渡すと
「泣きたい時は沢山お泣きなさい」
と言って頭を撫でてくれた。
私はいつも「泣くのをやめなさい」か「泣かないで」の言葉しかかけてもらえなかった。転んで泣きわめいている時、苦しかったことから解放された時。どんな時でも「いつも笑顔の君が泣くなんて駄目だ」と言われ続けてきた。
「涙は悲しみを癒すもの。泣いていいのよ」
芙沙子さんは何度も何度も慈しむように頭に手を置いた。レースのハンカチは水分を含んでずっしりと重くなった。私は生まれて初めて泣いてもいいのだと知った。涙を見せてもいいのだと分かった。

心の奥底にゆっくりと身を沈めると部屋の隅っこで膝を抱える私がいた。幼い私はいつも狭い所に逃げ隠れ人に怯えていた。
幼稚園で母親と涙の別れをして頬に塩が噴いたある朝のことだ。靴箱に向かうと、私の上履きがなかった。何処かに起き忘れたとか家に持ち帰った覚えはないのに、そこにあるのは仄暗い空間だけ。私の足に馴染んだ上履きは姿を消し去ってしまった。思い返せばジャングルジムで遊ぶ友達に話しかけても無視をされたり、お誕生日会に自分だけが呼ばれない日々が続いていた。でも幼い私には孤独の意味が分からなくて、一人で好きな絵本を読んだりお気に入りのぬいぐるみを抱きかかえたりして過ごしていた。いじめの主犯はそんな態度が一層気に食わなかったらしく、絵本もぬいぐるみも何処かに隠されてしまった。だから私はいつも階段の端っこや教室の隅っこで膝を抱えていた。
でも母親に靴を隠されたということが知れ渡ってしまい、私はことの重大さに気がついた。このままだと母親に嫌われてしまうのではないか。こんな孤独に愛された娘などいらないのではないか、と危惧した。私は慌てて偽りの仮面を被った。クラスメイトの前で馬鹿な戯言を言ったり、お調子者のふりをして過ごした。次第に離れていった友達も戻ってきて私は孤独から抜け出せた。
私は心の底に潜んだ幼い私に近づく。いくら友達が増えても、家族がバラバラにならなくても本当の私はいつもこうして膝を抱えて震えていたのだ。泣くことを遮られて偽りの笑顔を作って、心の傷跡が化膿して痛んでも見て見ぬ振りをしてきた。
私は小さな私に近寄るとそっと胸元へ抱き寄せた。そして芙沙子さんがそうしてくれたように優しく頭を撫でる。
「あなたは一人じゃないわ」
過去の私はくすぐったそうに身動ぎをする。
「私はあなたを誰よりも知っているわ。ほらあの歌を歌いましょう」
私は幼い頃大好きだった童歌を口ずさむ。幼女の私は嬉しそうな微笑みを浮かべてそれを一緒に歌ってくれた。
私は母親にノーと言う勇気を持っていなかった。でもこうして本当の自分と対峙した今なら大丈夫。今やろう。今からでも遅くない。何度でも紐を解いてやり直そう。今の私にはそれが出来る。無限の可能性が見える。
私は幼い私と手を繋ぐ。右手に小さな左手がしっかり存在しているのを確認すると私は前を向いて歩き出した。

ずいぶんと日差しが強くなった公園で、私は芙沙子さんを待つ。右手に出来たてのパンの袋を持って木漏れ日の下に座った。この店のクリームパンは絶品でいつも午後になると売り切れてしまう程のものだ。作りたてのクリームパンからは香ばしい小麦の匂いとカスタードクリームの甘い香りが広がった。
「あら、いい匂い」
芙沙子さんが編みかけのレースが入った鞄を揺らしながら近づいてくる。
「駅前のパン屋さんね」
「ええ。一番人気のクリームパン。さっき焼きあがったばかりよ」
私は袋からクリームパンを取り出すと芙沙子さんに手渡した。彼女はクリームパンそっくりの掌でそれを受け取ると愛おしそうに胸元へ持っていった。
私達は木々の煌めく日差しの中でクリームパンを食べた。まだ温かいふかふかの生地に噛み付くと滑らかなカスタードが口内を満たした。私は口元についたクリームを舌で舐めとりながら芙沙子さんに尋ねる。
「芙沙子さんはどんな子供だったの?」
半分まで食べたクリームパンを口元から一度離すと、芙沙子さんは遠い目をしながら語ってくれた。
「優等生だったわ」
芙沙子さんから紡がれた言葉の奥底に潜む歴史の重みを私は感じ取った。
「何でもかんでも完璧にこなさなくちゃ駄目だと思っていたわ」
「とっても疲れそうね」
「ええ。とても疲れたわ。そしたらある日心の何かがポッキリ折れたの。木枯らしに吹き付けられた小枝のように」
芙沙子さんは首をかくんと横に倒しながらそう呟いた。
「それで気がついたの。ミスや失敗をする度に自分を責めて落ち込むより、よくここまでやって来れたわねって自分を褒めてあげた方が何倍も楽だって」
「編み物と一緒ね」
「そう。編み物と一緒」
私達は互いの瞳を見つめると声を出して笑いあった。
「本当に美味しいわね。このクリームパン」
芙沙子さんはそう言うと残り半分になったクリームパンに顔を近づけた。

家を出た時よりも多くなった荷物を抱えて私は駅のホームに立っていた。幼い子供を連れた母親がいる。はしゃいでホームを走り回る子供を叱りつけていた。
私は自分の家への切符を握りしめながら空を仰いだ。
家へ帰ると伝えると祖母は
「またいつでもいらっしゃい」
と手を熱く握ってくれた。妙な切なさが私に覆いかぶさり涙を流した。祖母は困ったように笑いながら頭を撫でてくれた。
さっきホームを走っていた子供がいつの間にか私の目の前まで来て、盛大に転んだ。すぐに少女は大きな口を開けて涙を流す。私は彼女に近づいて芙沙子さんに貰ったレースのハンカチで涙を拭いてやった。
「すみません。うちの子が」
母親が慌てて駆け寄ってくる。
「大丈夫です」
少女は母親が側にいることに気がつくと、安心してよけい大きな声で泣いた。
私は少女の手に芙沙子さんから貰ったレースのハンカチを握らせた。
「これ、あなたのじゃ?」
母親が娘の握りしめるエレガントなレースを見つめながら尋ねる。
「差し上げます。彼女も気に入っているわ」
少女はレースのハンカチで自分の涙を懸命に拭いていた。ホームに電車が到着したので私は母親に一度会釈をすると車内へ入った。後ろから母親の感謝の声が聞こえた。
空調の効いた車内は寒い程だった。私は切符に書かれた座席を探す。窓際のその席はホームに貼られた広告がよく見える位置にあった。私はお別れの時に芙沙子さんに貰った、編み物が詰まってパンパンの荷物を置く。窓の外の広告を目にすると小さく息を飲んだ。そこにはこの辺りで開催されているサーカスの広告があった。ピエロがでかでかと印刷されている。私の後ろの座席に座っている子供が母親に話しかける。
「あれ僕たちが見たやつだよね」
少年は興奮してやまない声で続けた。
「僕、ピエロが一番好きだよ。面白いもん」
私は小さく微笑みを浮かべた。スポットライトの下で陽気に踊るピエロを思い浮かべる。そのサーカスはレースがあしらわれたテントの中で催されていてピエロが泣いても大丈夫な作りになっている。このサーカスのチケットを母親にプレゼントしよう。そう心に誓いながら私は電車が発進するのを待った。後ろで少年がピエロの真似事をしているのか母親の笑い声が車内に響き渡る。きっと彼もまた心の底は泣き虫なのだろう。そう思うと彼に編み物の仕方を教えてやりたくなる。私は連なるレースの瞬きを胸の中にそっと仕舞い込むように抱きしめた。


小説のコメントコメント
この作品の著作権は、作者である 椎橋もえぎ さんに帰属します。無断転載等を禁じます。

家族は難しい。
家族といえど、他人であると
思います。
2018/10/21 13:52 椎橋もえぎ



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