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現代小説/歴史小説

『コミックシェルター』

椎橋もえぎ著



今日の卵焼きは塩辛かった。
弁当を彩るその黄色は紅葉の時に空からはらりと落ちる銀杏の葉のように繊細で麗しい。ポークピッツと冷凍食品のミニエビグラタンに箸をつけた僕は、慎重に黄色を口にする。舌の上にふんわりとうま味が広がった。
今日は塩辛い日だ。母さんは毎日の弁当を飽きさせないように、卵焼きの味をころころ変える。昨日は砂糖とだし醤油の効いた甘い卵焼きだった。明太子やチーズが幾重にも折り重なって畳まれた黄金色の層に組み込まれていることもあって、僕は弁当の蓋を開けて、卵焼きを口にする度、小さなギャンブル気分を味わう。
卵焼きはいつも三つ入っている。いかにバランス良く限りある卵焼きを消費していくかを考えるのが僕に課せられた細やかな任務だ。
弁当箱の二段目に敷かれた海苔ご飯との食い合わせもきちんと計画的に行わなくてはならない。
きっと他人よりも食べるのが随分遅いだろう。
僕は思考する。次は鮮やかに輝くブロッコリー。白身魚のフライがそっと身を寄せる。そっけない素振りでそれを一瞥し、ポテトサラダの海へ飛び込む。磯の香り漂う海苔ご飯が襲いかかるように喉を締め付けた。
小さなプラスチックの箱の中身が、ひとつひとつと姿を消して、僕の胃袋へ吸い込まれていく。箸をつける前の鮮やかな見た目を無残にも切り崩して、僕は咀嚼を繰り返す。ずっと終わらなければいいのに。ずっとこのままでいられたらいいのに。そんなことを思いながら、僕はひとり漫画喫茶のブースで昼飯を食べる。誰かのペースに合わせることもなく、ゆっくり、時間をかけて、ひとり。
隣のブースからパソコンのマウスをクリックする音が聞こえた。僕のいる禁煙席のブースにも煙草の香りが広がる。きっと仕切りが甘いのだ。分煙に力を入れるような場所では決してないから、いつだって僕の鼻腔には煙と他のブースにいる人間の体臭や店員が干した雑巾の生乾きの臭いで満ちていた。
漫画のページをめくる乾いた音が急き立てるように僕を捲したてる。
正午、制服のネクタイの首元を緩めて、僕は食事を終えた。空になった弁当箱を見て母さんは明日の卵焼きの味はどうしようかと考えるのだろう。息子が胡乱な場所で食事をしているなんて思いもせず、軽やかにステップでも踏みながら。
空虚な弁当箱をランチョンマット代わりに敷いていたバンダナで乱雑に覆い鞄へ押し込む。深く、底に着いても無理矢理力任せに。そうやったらいつか存在そのものが消えてなくなるんじゃないか、なんてちょっぴり期待しながら、今日もその願い打ち砕かれてため息ひとつ。僕のちっぽけな嘆きは行く当てもなく彷徨い、漫画喫茶の空気に溶け込む。不衛生な空間の中を目的など持たずただ漂っていた。

漫画喫茶に通うようになって、僕はまだ日が浅い。会員証のバーコードは青々と輝いていて、擦り切れていることもないし、折れても曲がってもいない。好きな漫画がどこに置かれているのかも最近ようやく覚え始めたばかりだ。
だからと言って、新入りの僕にベテランの常連がとやかく言うこともなく、僕は粛々と青葉マークを引っさげて店内で身を縮ませる。中学生が朝から漫画喫茶に入店しようと誰も興味を示さない。
無関心。それが今の僕には心地良い。
弁当箱の入った鞄は程よい重みを孕んでいて、鞄が身体にぶつかったり、肩からずり落ちたりする度、ほっこりとした気分になる
朝、リビングで母さんに直接手渡される弁当箱はまだ柔らかな温もりを帯びていて、まどろんでしまいそうになる。僕は毎朝それを黙って鞄に詰め込んで玄関の扉を開ける。
学校へ行くのだ。正確には学校へ行くふりをするのだ。
玄関から出る一歩がいつも僕には途方もない距離に感じる。外と内を隔てるたった一歩が、長く重い。強張る僕の背中を母さんは柔らかな物腰で見守る。
「行きたくないのなら無理しなくてもいいのよ」
と母さんはついこの間までよく口にした。なんて甘美な言葉の粒だろうと僕は惚ける。でもそのひとつひとつをよく見ると、先がぎざぎざに尖っていて、心を乱らにひっかくのだ。母さんは自分で気が付かないうちに、僕と自分の心を傷つけていた。だから僕はできるだけ、母さんからその言葉の塊を吐き出させないようにした。
「行ってきます」
自分に浴びせるように言い聞かせて家を出る。学校へ行くのだ。学校へ行くふりをするのだ。
それは本当に些細な気持ちだった。学校へ向かう途中に佇んでいた漫画喫茶の看板が、たまたま目に留まって入ってやろうか、という気持ちになった。
駅のホームで電車を待っている時に、ふとこのまま線路に飛び込んだらどうなるだろう、だとか、コンビニでお菓子を買おうとレジへ並んでいる時、その場で買ってもいない商品の袋を開けて中身を食べたらどうなるだろうかとか、そういった妄想の欠片が、その日僕の脳裏に過った。
そしてそれは妄想という垣根を越えて、シナプスに信号を送り、流れるように行動へと移された。
気が付いた時、僕は漫画喫茶の会員証の手続きの紙に名前を書いていた。
身分が分かるものを提示してほしいと言われ、学生証を差し出した時、僕は我に返った。
時刻は朝の八時を過ぎたところ。制服に身を包んだ中学生が、平日の朝に漫画喫茶にいるなんて、未曾有の事態なのではないか。このまま学校の先生や、警察に差し出されてしまうのではないかと恐怖に襲われて、自分の仕出かした悪事に打ちのめされた。
だが、僕の心配をよそに店員の女性は快く会員証のカードを発行してくれた。そしてひとつのお咎めもなく、システムのルールを説明し、あらかた話が終わると虚ろな目をして受付の奥にあるスタッフルームに入っていった。
安堵と、後悔が僕の胸にしこりのように残った。きっとどこかで誰か大人に止めて欲しかったのかもしれない。人生の曲がり角への道を塞ごうと躍起になって叱ってくれる人を探していたのかもしれない。だから漫画喫茶へ足を運んだのだろうか。渡されたばかりの会員カードが僕の右手で蛍光灯に反射して鋭利な光を放っている。受付に残された僕は、ただずっとその光の色を見つめていた。

僕が店を訪れる頃、いつも慌ただしく会計を済ませる客がいた。
毎朝両手いっぱいに荷物を提げる彼の身なりはそこらにいる出勤中のサラリーマンと変わりなく、小綺麗でスマートなスーツ姿だ。歳は四十代半ばといった感じで、どうやら毎日漫画喫茶を利用している様子だった。
毎晩横になれるシートのブースに毛布を持ち込んで、眠りにつき、朝になるとスーツに着替え漫画喫茶から出勤する。
彼の職場の人間は、彼がこんな小汚い場所からオフィスへひらりと参上することを知っているだろうか。彼も僕と同じだ。漫画喫茶という秘密の種を隠し持っている。その種が芽を出すことがないように、必死になって日陰で身を潜めている。
僕らにとって日向の世界は身が焦がれる程眩しく、痛いほど熱く、喉が焼けるほど苦しい。コインロッカーに預けるであろう大荷物をふらふらしながら運ぶ後ろ姿に僕は祈りを捧げる。どうか彼の種がこれから先もずっと芽吹くことがありませんように、と。
彼が会社へ出社した後のブースの片付けを、店員の女性が気だるげに行う。
ブリーチで傷んだ毛先を跳ねさせながら、木本さんはアルコールスプレーと雑巾を手に取った。
僕を悪の道へと誘った彼女の名前は木本という。胸元に着けられたネームプレートを見て、僕は彼女の名前を知った。自分の転落人生の引き金となった人物の名前くらい覚えていた方が、箔がつくかなという魂胆だ。
木本さんは生きているのだか死んでいるのだかわからない目をしている。
これまでに何度も修羅場をくぐり抜けて、その度に絶望をして、死のうと思ったことは何度もあった、といったような訴えを含んだ混沌とした瞳をしている。全てを諦めきったような、もがいたところで苦しいだけだと捨て身になっているような、檻の中に何年も閉じ込められた動物園の猛獣のような雰囲気を醸し出していた。
彼女にとって僕は客という消費者のひとりでしかないので、毎朝八時に店を訪れても何か言われることはない。どこのブースが希望か、とか、会計の時に金額を述べられる程度の会話しかしたことがなくて、彼女の声がどんな色をしていたか思い出すのに苦労をするほど、関わりがない。僕が一方的に彼女に特別な感情を抱いているだけだ。
それは好き、だとか恋とかいったものでなく、知識のようなものだった。世の中にはこんな大人も生きているのだという発見を僕は彼女から見出した。
僕の中で大人という生き物は、規則に従順で、己の正しさを貫き、それを誇りにして未開発の地を闊歩していくような、逞しくて雄々しいものなのだと思っていた。
現に父さんは不登校気味だった僕に激昂していたし、そんないきり立った父さんから僕を守ろうとした母さんの矛は重厚で固かった。学校の先生たちもみな、秩序正しく、正義と悪に立ち向かうような振る舞いをしていた。
だからドリンクバーの機材を鬱陶しそうに洗っている木本さんの姿を見て、こんな生物もいるのだと、いてもいいのだと分かって、数学のややこしい因数分解が解けた時のような爽快な感情が湧き出した。僕を奈落の底に貶めたのは木本さんだったが、そこから見上げる空の高さを教えてくれたのもまた、木本さんだった。
僕は今、不透明な泥水の中を漂っている。悪臭のするヘドロのような液体を僕自身も垂れ流し、右も左も、上も下もわからない水中を彷徨う。不安と孤独に包まれそうになった時、泥よりも更に黒く、暗く、冷たい塊が腹を撫でる。
不思議だ。透明な水の中ではあんなに濁りが不快だったのに、今はこんなにも心地がいいなんて。
僕は自分の瞳がどんどん燻んでゆくのを感じた。泥水の中では目を開いていても閉じていても、映るものは濁っていることに変わりはないので、次第に見ることをやめる。濁りの中で僕の知らない沢山の生き物が密やかに蠢いているのを静かに肌で感じた。

学校に通えなくなったのは六月の頭頃だった。その頃、クラスメイトのみんなは合唱コンクールに向け一致団結しようと模索していた。
放課後に残って譜面通りに歌えているか確かめ会ったり、ハーモニーがちゃんと重なっているか歌ったりして、絆は着実に生まれつつあった。
部活動をしていなかった僕は、何かに打ち込むということをあまり知らなかったから、周りの真剣な雰囲気に飲み込まれて妙な責任感を持つようになった。
音楽の時間に全員揃って歌う時、僕だけが音を外しているのではないかと不安になり、でも、声を出さなければやる気がないと怒られてしまうと怯え、一心不乱に歌った。
僕たちのクラスの伴奏者は、学年でも一番の上手さを誇るピアニストだった。
彼女の奏でるピアノは繊細で、一音一音紡がれていく度優美なメロディが宙を舞った。指がすらりと長くて、僕には到底解読できない譜面の音符をスラスラとミュージックに仕立て上げる。
合唱コンクールでは、秀でた指揮者と伴奏者が学年から一人ずつ選ばれる。彼女は一年生の時、その栄誉を手にした。今年もきっと彼女が選ばれるだろうと誰もが思っていた。
だから僕たちは彼女の足を引っ張らないように、すがりつくように練習し、歌を磨き上げた。
本番の朝、僕は誰よりも早く教室に着き、自分の席に着いたり、立ち上がったり覚束無い行動をとった。座っていると、思考が頭を巡って不安になるし、動いていると、肺が締め付けられるように萎縮して呼吸ができなかった。
コンクール本番、僕たちは学内にある講堂のステージへ上がる。列を均等に、靴がステージを叩く音をなるべく立てないように、静かに入場する。僕のいる一番前の列は会場中の視線を浴びているかのようで足元がおぼつかなくて転びそうになる。
並び終えると指揮者が僕らの前へ立った。
僕はその時の光景を今でも鮮明に思い出せる。
ライトの当たった指揮者の顔は緊張でこわばり、うっすらと汗をかいていた。クラスメイトを大きく一度見渡し
「みんな準備はいいか」
と目で問いかける。指揮棒をそっと掲げ、伴奏者へ顔を向け曲を操る準備をする。
指揮棒が振られ、伴奏者のピアノが高らかに鳴ろうとしたその時だった。
僕は立ち上がった姿勢のまま、厳粛なステージに嘔吐した。
身体が痙攣し、指先が冷たく震えていた。 
会場中の視線が、クラスメイト全ての視線が僕に集まった。僕はその鋭い刃に切り刻まれ、もう一度大きく吐露した。
悲鳴、感嘆、どよめきが会場中を包み込む。その場に倒れこんで、遠のいていく意識の中、僕は奏でられることのなかったピアニストの彼女の指先を思い出していた。蝶のように舞う彼女の指は今頃所在なさげに身震いしているのだろう。彼女が表彰されることは無くなった。その真実が僕の胸をえぐりとった。身体が冷たい。まるで海の底に沈んでしまったかのような息苦しさと寒さだった。クラスメイトから浴びせられた視線もそれと同じように氷のように冷たかった。
会場はいつまでも騒然としていたが、先生たちの注意に促されて元の静けさを取り戻しつつあった。
まるで僕だけがその場に取り残されたかのようにひとり震えていた。

全校生徒の前で汚物まみれになった僕は、それから学校へ行かなくなった。
ステージで倒れてから目が覚めるまで数時間、僕は保健室で気を失っていた。
コンクールはとうに終わっていて、生徒たちは帰宅し始めていた。
僕は汚れた衣服から体操着に着替えている間、ドアの外側から聞こえる生徒の笑い声や足音ひとつひとつにビクついた。耳を塞ごうにも目の前に散乱した吐瀉物まみれの制服とステージでの視線が僕の喉元を締め付けて、呼吸が乱れ、息ができなくパニックになった。
程なくして母さんが迎えに来てくれたが、生徒がまばらに帰宅する道をどうしても通ることができなくて、ママレード色の夕焼けが暮れて、漆黒の暗闇と静寂が訪れるようになる時間まで、保健室で丸くなっていた。
どうしようもない後悔と、受け入れがたい現実が僕を襲った。
繰り返される「どうして」に頭がもぎ取られそうになる。
ほんのたった一瞬の出来事で、僕の日常が崩れ去って行った。
自分の部屋に閉じこもり、ベッドのタオルケットに包まって日がな一日眠っていた。眠りは思考を止めてくれる。眠っている間は何も考えずに済んで、僕は食事をとることも、トイレに行くこともなく、依存するように睡眠をとった。
夢の中で僕は宇宙服を着て銀河を彷徨っている。大きなヘルメットから覗く惑星は漂う宇宙の広さに比べたら、面白いほどほど小さくて、僕は世界とはなんてちっぽけなのだとゲラゲラ笑う。無重力の自由気ままな浮遊感もたまらなく愛おしくて、僕は永遠にこの宇宙にひとりきりでいたいと願う。
目が覚めた時、人知れず涙が溢れているのはきっと、そんな夢物語からちっぽけな現実に引き戻されてしまったことへのささやかな抵抗なのだろう。枕が涙で濡れて、溺れてしまいそうになる。
僕が休んでいても、誰も気にとめることなく学校生活は進んでいるようだった。
とりわけ仲のよかった友人というものもいなかったので誰かが見舞いに来るということもなかった。
きっと始めは話題にこそなるが、次第に風化され、何もなかったかのような平凡が彼らを待ちうける。僕だけがひとり、あの日にがんじがらめになって縛り付けられて、亡霊のように佇む。夢の世界だと、あんなにも心広く雄大になれるのに、どうして現実の僕はこんなにも執着をしてしまうのだろう。
リフレインする「どうして」の発作が始まって、僕は無理に眠りにつこうとする。
その時の僕は、眠るために生きていた。眠りがあるから生きていられた。
きっと誰もが生きていく上で小さな逃げ道を持っていて、それは例えば美味しいものを食べて苦しかったことを楽しいことに上書いたり、動物と触れ合うことで癒されたり、スポーツをして汗を流し、嫌なことを忘れようとするのと同じだった。趣味だとか、何のために生きているのかと問われた時の答え、それが睡眠だった。
水も取らずに眠りの世界へ逃げる僕を、父さんは良しとしなかった。
「何故逃げるのだ」
と胸ぐらを掴んで叱責した。
僕にはどうして逃げてはいけないのかわからない。だって誰も皆、逃げているじゃないか。 
中間テストの勉強が嫌で、試験の前日までゲームをしたり漫画を読んだり、苦手な食べ物を後回しに食べたり、片想いの異性に振られるのが怖くて想いを告げなかったり。皆、自分の為に逃げている。たまたまその逃げが今の僕には睡眠だっただけだ。どうして駄目なのだろう。立派な大人になれないからだろうか。大人は皆逃げることなく、苦しい現実に立ち向かうものなのだろうか。
母さんがやせ細った僕の身体に手を伸ばす。「せめて何か口にして欲しい。何でもいいから生きていて欲しい」
そうか細く呟いて僕を優しく抱きしめた。
心配しているのだ。父さんも母さんも。僕はそこで初めて、苦しんでいるのは自分ひとりではないことに気が付いた。こんな僕にも愛してくれる人がいることに気が付いた。
それから僕は、保健室登校というものを始めることにした。学校へ通っても生徒のいる教室には行かず、保健室で一日を過ごすのだ。 
担当教師も特にいるわけでなく、無理やり勉強をさせるわけでもなく、ただ、登校を目的に保健室へと通う。保健室に登校しても、それは出席扱いになるようで、そんな制度があることを知った父さんは僕より嬉しそうに笑った。未来を見据えて笑った。
登校する時間も指定はなく、来れる時間で構わないからゆっくり来てくれば良いとのことだった。
日夜眠り続けていた僕の身体は、体内時計が狂ってしまっていて、朝の八時に登校するのが恐ろしく難解だったので、いつでもいいというのはありがたかった。
それに、真っ当な生徒に混じって保健室に登校をするというのもハードルが高かったから、普通の生徒が踏み平し終わった道を僕はのんびり登校した。
保健室で僕はひとり許されるままに勉学に励んだり、先生に話を聞いてもらったりした。
先生は無理に教室へ誘おうともせず、僕のペースを崩そうとしなかった。
保健室での空間は僕を拒絶しなかった。家にいた頃の、眠りの時間は、父さんの圧力を常に感じていて、眠っているのに、心休まれる時がなかった。排除されてしまうのではないかといつも怯えていた。
保健室に行けない日もあった。気候の変化や身体の調律が微妙にずれて、すこぶる体調が悪い日も多々あった。
そんな時、僕は保健室の先生に電話をした。どうしても行けない旨を伝えると
「無理して来なくてもいい」
と言われた。その言葉は僕の身体の歪みを正確に直し、綺麗に構築した。
そのうちにだんだん身体のタイマーが調整されて、次第に他の生徒が登校する時間と同じ頃、家を出られるようになった。帰る時間はいつも昼過ぎで、先生に帰りますと一言告げるだけで、自由に帰宅できた。他の生徒と帰る時間が被らないことだけを頭において、僕は保健室登校を遂行していた。
何の変哲もない日に、僕は思った。このままだとどうなってしまうのだろうと。先生からは一度も今後の方針を導かれることはなかった。
僕の学校は中高一貫校だったので、受験で大変な訳でもないし、このままゆっくり慣らしていけばいずれ学校に復帰できるだろうと思っていたのかもしれない。
でも、僕にはクラスメイトのいる教室に自分がいる姿を投影できなかった。隣の席の子に教科書を見せてもらったり、プリントを後ろの席の子に配ったり、放課後の教室で教科書を詰め込んだ鞄を肩から提げて、さあ帰ろうと友達に声をかけている自分が、全く浮かばなかった。
虚無だった。からっぽだった。
結局のところ僕はずっと頑張っているふりをして、目をつぶっているだけで、自分から何も生み出そうとしていなかったのだ。家で眠っているのと何も変わらない。瞳を大きく開くことを拒んでいる。固く閉ざされた瞼には重い枷がぶら下がって、もうどうにもこじ開けることなんてできないように思えた。
だからあの日、僕は保健室に行くことを止めた。道の角に佇んだ漫画喫茶の看板を見つめて、入ってやろうかという気持ちになった。
驚いたことに、その時僕は興奮していた。生まれて初めて自分で何かを決めた気がした。
漫画喫茶へ続く階段を登っている時、僕の胸はこれ以上無く高鳴っていた。あんなに強張っていた瞼が、シャッターを切るようにぱちぱちと瞬いていた。

目を覚ますと午後三時と時計が告げていた。弁当を食べ終わって少しまどろんだ僕はそのまま、ブースの中で丸くなって眠ってしまったようだ。
身体の節々が痛い。普段ならもうとっくに家に帰っている時間だ。僕は慌てて受付のカウンターへ行き、会計を済ませた。
漫画喫茶の外の世界は、瑞々しい空気と開放的な空に満ちていた。
僕は身体を一度うんと伸ばして、自宅へ帰ろうとした。
漫画喫茶のある商店街を抜け、住宅街へ歩を進める。腰の曲がったおばあさんが荷物を乗せた押し車をよちよち運んでいる。カレー屋からスパイスの香りがした。果物屋の柿が艶やかに光っている。
僕は母さんにメールを入れる。プリントを終わらせるのに時間がかかったので今から帰ると伝えた。
綺麗な秋空だった。澄み渡った空は、絵の具のチューブを捻って出したブルーを水でうっすら溶いて画用紙に筆でさっと塗ったような美しい色をしていた。見上げた僕の瞳の色まで、海のような青に染まる。小鳥が植木で日向ぼっこをしている。小さくさえずりながら地面をうろちょろしていたが、僕が近くを通ると慌てて空へ飛んでいった。
冴え渡る空だった。僕はそれをずっと眺めていた。だから、僕の学校の制服を着た女子生徒たちがすぐ目の前でたむろしていることに全く気が付かなかった。
彼女たちは、自転車屋の前でサークルを描いておしゃべりをしていた。僕の心臓は恐ろしいほど脈打って、痛いほど収縮と膨らみを繰り返した。
冷たい汗が背中をびっしょりと濡らす。手が震えていた。
彼女たちの前を通らなければ僕は家に帰ることができない。僕は女の子たちの集団を通り過ぎるという至極簡単なことが全く到底できなかった。
僕は後ずさるように歩いて来た道を戻る。
おばあさんが、カレーの香りが、柿の光沢が、僕の胃袋を圧迫して、意識が飛びそうになる
泥濘の中を歩くように人気ない路地裏へ向かうと、僕は昼に食べたものを全て吐いた。
色彩鮮やかだった弁当が、ドロドロに変わり果て路地を汚した。陸に打ち上げられた魚みたいにびくびくと痙攣しながら僕は幾度も吐いた。次第に吐くものがなくなって黄色い胃液がだらりと口から垂れ落ちた。
涙と鼻水と吐瀉物で汚れた顔をティッシュで拭う。母さんの作ってくれた弁当をこんな形で路上にぶちまけてしまって、背徳感でいっぱいになった。
僕はその場に座り込み、膝を抱えるようにして自分を抱きしめた。
コーラスコンクールでの惨劇が僕の脳裏から離れない。冷ややかな笑い、軽蔑の眼差し、コンクールを台無しにされたことに対する怒り。あの日浴びた全ての感情が僕の胃袋をめちゃくちゃにかき乱した。 
身体をきつく抱いていないと、四肢がバラバラになってしまいそうで怖かった。
いくら月日が経とうとしても僕はあの日から抜け出すことができない。ほんの些細なきっかけで、またこうして恐怖を吐き出してしまう。
突如背中に視線を感じた。汗を滲ませながら、咄嗟に振り返るとそこには木本さんが立っていた。彼女は僕を見下ろして、黙ってペットボトルのミネラルウォーターを差し出した。僕は、何が起きているのか理解ができなくて、口をぽかんと開けていた。
「これで口、ゆすぎなよ。口ん中気持ち悪いでしょ」
木本さんの言葉が僕の耳にぶつかる。いつも聞く木本さんのあの声だ。ぶっきらぼうなのに、少し高くて、存外可愛らしい声。
僕は言われるがままにミネラルウォーターを受け取って口をゆすいだ。汚れた水をどこに吐き出せばいいのかわからず困惑していたら、木本さんがビニール袋を渡してくれた。
木本さんはいつからここにいたのだろうか。僕が吐いている姿を見て、コンビニに寄ってミネラルウォーターを買いに行ってくれたに違いない。ミネラルウォーターは買ったばかりなのか、冷えていて気持ちが良かった。
路上にまみれた吐瀉物をどうしようかと悩んでいると、木本さんが僕の手を引いて商店街の方へ歩いて行った。僕はもつれそうになる足を踏ん張って彼女に着いて行く。
路地裏に汚物が散乱しているのを世界中でまだ僕ら二人しか知らない。

区民館の野外のベンチに座って、僕は紙コップに注がれたミルクティーが立ち上げる湯気を見ていた。
重力に逆らって空へ吸い込まれていく白い蒸気は、僕の頬をやんわりと撫でつけて、なんだか涙が出そうになる。
嘔吐で奪われた体力のせいで、僕は今にも眠ってしまいそうだった。隣に座る木本さんは僕のそんな気持ちを察してか、繋いだ右手を離すことなく黙っていた。
木枯らしが僕たちの身体を舐め回すように吹き抜けた。僕は眠気で回らない頭を小さく揺らしながらも、意識をキープすることに努めた。
でも、左手に握りしめたミルクティーの熱さと繋がったままの木本さんの掌から伝わる細やかな温もりが夢の世界へと僕を誘おうとする。
木本さんが何か言っている。でも、声がもう果てしない彼方へ飛んでしまっていた。
左手から熱の塊が消えた。木本さんが僕の手からミルクティーを奪ったのだ。残されたのは木本さんと僕をつなぐ掌の感触と温もりだけ。僕は、女の人と手を繋ぐのなんて何時ぶりだろうとぼんやり考えていた。
どれくらい眠っていたのだろう。とても僅かな瞬間のようにも感じたし、迷路を彷徨うような、飽くない時間にも感じられた。
僕が目を覚ました時、空はおぼろげなオレンジ色をしていて、嗚呼もうすぐ日が暮れるなと思った。
少しずつ回り始めた脳みそを整理すると、どうやら僕は木本さんの肩に身体を寄せて眠りこけているらしかった。
僕は慌てて体勢を立て直し、木本さんに謝罪した。
木本さんは店で見せるような有象無象を見るような目で僕を見つめ
「あんた、学校行ってないよね」
と言った。
僕の心臓が口から飛び出してしまうのではないかというほど、大きく脈打った。
ばれていた。僕が僕であるときちんと認識されていた。無関心を装われていた。良いように弄ばれた。
耳の中で鼓動がずっと鳴り響く。握られた右手が大きな鎖で縛られたかのように息苦しそうに悶えた。
「その年で社会不適合者だなんて、あんたの人生もう終わってるね」
木本さんは、三日月のように目を鋭く尖らせてほくそ笑んだ。
「いいんでない。いいんでない。仲間仲間。」
強張った右手を木本さんはリズミカルに何度も握った。僕の身体をほぐすかのように陽気に、愉快に。
「冷めちゃったけど、飲みたまえ。前途不有望な少年よ。祝杯でもあげようではないか」
木本さんは僕から取り上げたミルクティーを差し出す。僕はそれを空いた片方の手で受け取り、なすがままに彼女の紙コップと杯を上げた。
それから木本さんは店では想像できないほどの数の言葉を長く降り続く雨水のように注いだ。僕の持つミルクティーが言葉の雨によって紙コップから溢れ出して零れ落ちた。彼女の言葉はゆっくりと、でも荒々しく流れていった。
「あんた、大人になれば何でもかんでも解決すると思って、ずっと逃げてるんでしょう? いつか自分も変わるだろうとか、周りが変わるだろうとか、思っちゃってんじゃない? 」
木本さんは、まくしたてるように僕の今までの概念を砕いていった。僕にとってそれは哲学書を読み更けた後のような、世界を駆け巡ったかのような感覚だった。視界が、思考が、観念が再構築されていく。
「無駄よ。何も変わりゃしないわ。あんたはずっとあんたのまま。一生逃げ続けるの。死ぬまでずっと」
僕は保健室登校をするようになって、先生によく「まだまだ人生これからなのだから」と言われた。でもその言葉を僕は悲観的にしか捉えることができなかった。これから何十年も途方もない道のりを、目的も、ゴールもなく歩き続けていかなければいけないと、そう言われた気がした。
「生きるって何ですか? 」
僕は、すがりつくように木本さんの左手を握りしめて小さく呟いた。
この不確定要素含んだ質問を大人はいつもごまかす。あるいは、自分の個人的な主観を押し付けて、威厳を張ったりした。
「惰性よ。意味なんてないのよ。人間にとって生きることなんて無価値だわ」
僕の胸に、悲しみの海と喜びの波がさざなんだ。どうしてだろう、こうやってちゃんと言葉を交わしたのは初めてなのに、僕の心の扉はすっかり開いて、そこから彼女の言葉が直接脳みそに浸透していく。
木本さんが僕を満たしてくれる。言葉はこんなにも辛辣なのに、僕にとってそれは聖母マリアの歌声のような丸みとふくよかさを孕んでいた。僕は彼女に優しく包み込まれる。掌の温もりが僕を彼女から離さない。彼女も僕から離れていこうとしなかった。
何も変わらない。その事実がどうしようもなく嬉しくて、僕はいっそう掌に力を入れる。
日が暮れようとしていた。僕はとうに帰宅時間が過ぎていることも忘れて木本さんの手を握り続けた。
一番星が空にぽっかりと浮かんでいる。夜の匂いが鼻腔をくすぐった。区民館から小学生がぞろぞろと列を成して出てくる。僕はその様を見て蟻の巣を思い出した。巣の近くにクッキーだとかキャンディーを細かく砕いて並べると、自分よりも何倍もある大きなお菓子を彼らは一生懸命運んだ。そんな蟻たちを見て、僕はなんて健気なのだろう思った。幼少から孤立しがちな僕はひとりぼっちでその巣穴を見つめて蟻にすら敵わないと思った。そんな僕が人間に勝てるはずが無いのだ。そのことを、目の前の木本さんが教えてくれた。
五時のチャイムが鳴っていた。子供達へ自分の家に帰るように告げている。スピーカーから流れる夕焼け小焼けは、なんだかノスタルジックで、切ない気持ちにさせられる。
子供達が互いに手を振りながらお別れをしているのが見えた。
僕も帰らなくては。でも、いったいどこへ帰るのだろう。帰ったその先に何が待っているのだろう。父さんと母さんは帰ってきた僕に何を期待するのだろう。皺の寄った制服姿と空っぽの弁当箱を見せつけて、僕は彼らに何を与えるのだろう。
そう思うといっそう僕の右手は強く木本さんの手を握りしめる。迷子になった子供が、どこにでも一緒に連れて行っていた馴染み深い人形をぎゅっと抱きしめるように、僕は、不安でいっぱいの気持ちを木本さんに投げかけ続けた。
一番星が頭上で煌々と輝いている。
木本さんはずっと僕の右手を離そうとしなかった。ただ、じっと僕の脆弱な「助けて」を静かに左手で聞いていた。

雀たちのさえずりが朝日に溶け込む朝、弁当箱を僕に渡す母さんの手は、どこか不安を帯びていた。
あの後、僕は木本さんと手を繋ぎながら家へ帰った。冷たい夜風が僕らに現実を突きつけてきたけれど、木本さんの掌は変わることなく温かくて、それは決して裏切ることのない温もりで、僕は母さんにどやされることなんてちっとも怖くなかった。
時刻は夕方の六時をまわっていた。母さんは僕がどこかで倒れているんじゃないかと心配したらしく、何度も携帯電話に連絡をしていたようだ。
僕は曖昧にその場を濁して、空っぽの弁当箱を渡した。母さんはそれ以上何も言うことなく、ただ、黙って弁当箱をシンクへ運んでいった。
僕は不安を打ち消すように、弁当箱を両手で受け取って、今までで一番大きい
「いってきます」
を唱えた。母さんは一瞬目を見開いて、普段と変わらない声音で
「いってらっしゃい」
と言った。
僕は軽やかにワルツでも踊るようにくるくると回りながら朝日照らされる通学路を歩いた。
いつも通る変わりない道がブロードウェイの街並みのように光り輝いていた。
赤や黄色の落ち葉がカサカサとメロディを奏でる。
通勤するサラリーマンの革靴のリズミカルな靴音が耳に心地よい。室外機の上で猫があくびをしていた。
角がひび割れて、穴の空いた漫画喫茶の看板でさえも、僕の心を弾ませる。
店へ続く階段一段一段がユートピアへと繋がる道筋のように感じた。
僕が登っている道をサラリーマンの男が下って行った。両手に抱えられた大荷物が、たゆたう。
「いってらっしゃい」
そう一言告げたくてたまらない。彼の一日がどうか平穏でありますようにと静かに祈った。
店の扉を開けると、スタッフルームから木本さんが面倒臭そうに出てきた。
僕は、勇んで会員カードを差し出す。彼女は昨日のことがまるで何もなかったかのように、煩わしそうにカードを受け取った。
聞きこぼしそうになるような小さな声で手続きをすませると、彼女はまたスタッフルームへ身を翻してしまった。
多弁だったあの女性は本当に木本さんだったのだろうか。そんな疑問が湧き出るほど、無情に彼女はいつも通りだった。
自分一人舞い上がっていたことが恥ずかしくて、僕は急いでブースの中へ閉じこもった。
僕は右手に感じた木本さんの肌の温もりや、柔らかさを思い出す。あの体温はまぎれもなく僕の手の中にあった。どうしてだろう。あんなに一緒だったのに。夕暮れを、星空を互いに確かめ合ったのに。彼女は僕の日常に突発的に嵐のように現れて、そして去っていった。
今日の卵焼きは、あおさが入っていて、黄色と緑のコントラストが美しく、思わず見とれてしまった。低くて鈍く光る大きな満月とそれに照らされる青々と茂った草木のような神秘的な美しさだった。
僕と木本さんも昨日はこの卵焼きの様な神秘的な出会いを迎えたはずなのに。何故、赤の他人ように振る舞うのだろう。こんな気持ちになるくらいなら、初めからゼロで良かったのに。心がマイナスになるくらいなら何もない無のままのほうがいく倍も幸せだ。僕は卵焼きを無理やり口の中に放り投げて噛み砕いた。
昼飯を食べ終えた僕は、早々に漫画喫茶を出ようと思った。会計カウンターでまた木本さんに会わなくてはならないのかと思うと、気が重い。
ブースから出ると、フロアをモップがけしている木本さんの姿が目に入った。僕の会計をしたいという意思が伝わったのだろうか、彼女は気だるげに受付へ行った。
僕が財布を取り出して、料金を払うと、彼女はレシートと一緒に小さな紙切れを渡した。
それはメモ用紙を二つに折り曲げたもので、何かが書かれているのかは、開くことには読み取れなかった。
僕は木本さんからの秘密のメッセージを預かった。木本さんは僕にメモ用紙を渡し終えると、何も言わず、またモップがけを再開した。
漫画喫茶を出て、僕は商店街の真ん中で禁秘の中身を読み砕いた。
二つ折りにされたメモ用紙には
「三時半に上がれるから、例のベンチで待っていなさい」
と書かれていた。僕は先程までの暗雲立ち込めた気分から打って変わって晴れやかな秋空のような心地になった。
メモ用紙を空に掲げて眺めたり、顔の近くに持って行って文字の羅列を何度も確かめたりした。
それは間違いなく、行儀よく横一列に並んでいて、幾度読み返しても、彼女からのお誘いのメッセージであるということを知らしめていた。
僕はロンド形式の音楽のように繰り返し飽きることなくメモ用紙を見つめた。彼女の紡ぎだす文字の形に酔いしれる。止めと跳ねがきちんと現れた潔い字だった。
昨日の手の中の温もりが蘇る。僕は区民館へ、道行く誰よりも朗らかな気持ちで向かった。卵焼きの黄色と緑が僕の頭の中を彩っていた。

四時手前、木本さんは区民館に現れた。ストールで口元を覆っていて、笑っているのか怒っているのかよく読み取れない。
僕はベンチから反射的に立ち上がってお辞儀をした。
「あんたさ、店であたしと話でもできると思ってたわけ? 」
木本さんは僕の隣に座って鞄からタバコを取り出した。
「話せるわけないじゃない。不登校の中学生と知り合いってバレたらあたしの立場なくなるでしょ」
木本さんは手元を覆い、ライターでタバコに火を灯した。
「そんなんだから、あんたはダメなんだよ」
わざと煙を僕の顔に吹きかけて、木本さんはニヤリと笑った。その顔があまりにも妖艶で、僕は赤くなった顔をうつむかせた。
「あんた、すぐそこの私立のおぼっちゃま学校に通ってるんでしょう? 学費も馬鹿にならないのに勉学に励むことなくこんな所で喋ってて、ほんとクズね」
木本さんの言う通り、僕は私立の学校に通っていた。
小学校の頃から塾に通い、第一志望の学校を目指していたので、僕に注ぎ込まれた学費は相当なものだ。金と期待を僕は無駄に垂れ流している。
「僕が望んであの学校に通いたいって言った訳じゃないんです。親が勝手に決めて」
僕は公立の中学校でも私立の中学校でも別段どちらでも構わなかった。
でも、両親が将来自分のしたいことを叶えられる可能性が無数に広がっている私立中学に進んだ方がいいと無理やり僕に受験を押し付けた。勉強をすることがそれほど苦痛ではなかった僕は、両親の言われるままに受験をした。
志望校という言葉を口にする度、その言葉が僕には見合わないと思った。それでも僕は私立中学校に合格した。僕自身には何も夢なんて無かったのに。
「学校でもよく先生に聞かれるんです。将来の夢は何かって。でも、たかだか十数年しか生きていないのに今後の未来をどうして今すぐ決めなくちゃいけないんでしょう」
僕は指先をもじもじさせながら、ずっと胸に抱いてた疑問を口にした。
「先生なんて生き物はね、ろくでもない奴らばかりなのよ」
木本さんはタバコの煙を肺に詰め込む。
「だって、新人だったとしても、いきなり大勢の子供の前に立たされるのよ。これが悪、これが善って指導権は初めから手の中にあるの」
吐き出された煙は、霧散して、硝煙の香りが辺りを漂った。
「社会の知識も経験も浅くて、無いに等しいのにいきなり先生、先生って崇め奉られるの」
タバコの根元を親指で叩いて灰を落とす。
「そんな環境で生きてきた輩に悩める子供の気持ちなんて分かる訳無いじゃ無い。所詮三年か六年もすれば生徒は勝手に卒業して関わりなんてなくなるし」
風が吹いて、木本さんの髪の毛とタバコの先から立ち昇る煙が僕の顔にそよぐ。
「公園で眠ってるホームレスのおっさんの方が何倍も人生の辛さを教えてくれるわよ」
木本さんはコンクリートにタバコの先端を押し付けた。火種の消える音が僕の耳に小さく残った。
木本さんはどうして僕に社会の厳しさを教えてくれるのだろう。初めて言葉を交わした時、僕の事を仲間だと言った。木本さんもまた、何かから逃げているのだろうか。そうだと思うと僕はどうしようもなく目の前の彼女を、それも年の離れた大人のことが愛おしく思えてしまうのだった。

いつものように空っぽの弁当箱を母さんに渡した僕は制服を脱いで部屋着に着替えた。
部屋にこもり、鞄から財布を取り出すと残金を確認した。
毎日の漫画喫茶による出費は僕の懐をすかすかにさせた。このままだと、僕は漫画喫茶に通えなくなるし、木本さんにも会えなくなる。お金が湯水のように湧き上がるわけもなく、僕は平べったい財布を目の前にして頭を抱えた。
部屋のドアをノックする音が転がった。返事をすると、母さんが遠慮がちにドアから顔を覗かせていた。
確かにここは僕の部屋だが自分の家なのだからもっと堂々とすればよいのに。
母さんは静かに僕のテリトリーに入り込み、僕の隣へ座った。しばらく辺りを見回すと僕の顔を覗き込み
「学校はどう? 」
と尋ねた。
僕は心臓の音が高鳴ったのを母さんに聞かれてしまってはいやしないかとヒヤヒヤしながらうやむやに返事をした。掌から汗が滲み、指先が冷えていく。
母さんは僕の返答を咀嚼して飲み込む。沈黙がやけに長く感じた。部屋の時計の針の音が聞こえるほど、静まり返った部屋で僕は心臓の音が止まないかと切に願った。
母さんは大きく息を吸い込んで
「行きたくないのなら無理しなくてもいいのよ」
と呟いた。
そして
「焦ることはないのよ。ゆっくりでいいから」そう言い残して部屋を後にした。
母さんは全てに気付いているのかもしれない。
保健室の先生から連絡があったのだろうか。それとも漫画喫茶から出てくるところを見られていたのだろうか。
事実がどうであれ僕はそろそろ潮時なのだろうと思った。お金が無くなるか、漫画喫茶通いが知れ渡るかは時間の問題だった。
僕は母さんが零していった言葉を反芻した。
焦ることはない、ゆっくりでいい。その言葉の裏には「だからいつかちゃんと返しなさい」があって僕の心を重くする。
僕は薄っぺらな財布にしまわれた、二つ折りのメモ用紙を取り出して掌に乗せた。
時計の針が時が進むのを告げている。足先が冷えて僕は毛布を取り出した。もうすぐ冬がやってくる。
掌の上のメモ用紙だけが、ほんのりと温もりに満ちていた。

足元から鳥が立つように、木本さんが僕の目の前からいなくなった。
 僕は今回を最後の漫画喫茶にしようと心に誓いながら会員カード片手に店を訪れた。
訝しい店のスタッフルームから出てきたのは木本さんではなく、三十過ぎの女性だった。 
僕は唖然としながらカードを握りしめる。汗でカードがぬるりと床に滑り落ちそうになった。
僕は餌を欲しがる魚のように口をぱくぱくさせながら困惑していた。店員は、固まっている僕のことを疑わしげに見つめた。
「あの、いつもの女の店員さんは…? 」
僕が喉を絞り出すような声で話し始めると、目の前の彼女は目を丸くして、あら、と言った。
「彼女ね、今朝遅番のチーフと喧嘩して仕事ほっぽりだして出てっちゃったの」
女性は迷惑そうな声を漏らした。
「ここの所、チーフと仲が険悪でね。降り積もった怒りが爆発したって感じかしら。もう辞めますって告げて走って帰っちゃったそうよ。私、平日は休みなのに無理やり来させられちゃって、本当に迷惑よね」
そうしてしばらく取りとめもない話を一方的に語りかけて、また、あら、と口にする。
「あなた学校は? 」
僕は堰を切ったように店を飛び出した。
 木本さんがそうしたように、僕も商店街の道を駆け抜ける。乾いた空気の中で朝の日差しが百万の鐘を鳴らすように瞬いた。それは宇宙を超えて僕を呼び続ける。
僕は木本さんに出会った路地裏や、区民館へ足を伸ばした。だが当然そこに木本さんの姿はなかった。
考えがあてもなく彷徨った。僕は突然の別れにどうして良いのかわからなくて、ただ呆然としていた。まるで目玉を潰されて盲目になってしまったかのような感覚に陥る。
北風が僕の体を貫いた。空っぽの郵便受けの中を覗き込んだ時のようなやるせなさが僕を襲う。僕の日常は元に戻った。僕の世界は何も変わることなどなかった。
走って乱れた制服の肩からずり落ちた鞄がやけに重く感じる。弁当箱の中身はきっともみくちゃにされて無残なものになっているだろう。
朝日がただ、ただ、眩しかった。

年が明けて、僕は保健室登校を再開した。
久しぶりに顔を出した僕を先生は責め立てることなく、前と同じように受け止めた。
僕は以前と同様、父さんが毎朝新聞を読むのと同じように、習慣的に保健室での時間を過ごした。
漫画喫茶での時間は濁った水の中を彷徨っているだけで、自発的になにかしようという気持ちにはならなかったが、保健室での僕は勉強をしたり、小説を読んだり、たまに絵を描いたりして時間を有効に活用することができた。
でも、それだけに過ぎなかった。僕にはやはりその先の未来が見えなかった。
保健室で食べる母さんの弁当は、蛍光灯に照らされて彩色を鮮やかに見せた。漫画喫茶の狭いブースの中で身を丸めて食べていた時と同じ物には見えなかった。
けれど、どうしてだろう。あのブースでタバコの香りに包まれながら食べた弁当の方が心を満たしてくれたような気がした。
久しぶりの登校で、僕の身体は疲れきり、帰ると風呂にも入らずベッドへ横になった。
眠ろうと思って目をつぶっても、何だか頭が冴えてなかなか入眠できなかった。
僕は暗闇の中で目を見開く。夜の帳の笑い声が鳴り響き、僕を駆り立てる。それは宇宙を越えて僕を呼び続けた。
この夜空の向こうのどこかに木本さんがいる。そう思うと僕の身体はむずむずと疼いて、いたたまれない気分になる。彼女の声を思い出そうとしてみたが、ぼんやりと色あせていてどんどん冷めていった。
僕の人生に強烈な色を投与した彼女の存在が僕から消え去ろうとしていた。
僕の世界は何も変わらない。この世界を変えることはできない。この世界を壊すことなど誰にもできない、そう思った。

春になった。桜の花びらが風にそよいで、僕の鼻先をくすぐる。
僕は学年が変わっても、保健室登校を続けていた。
僕の学校は中高一貫だから、受験というものはないけれど、成績が悪ければエスカレーター式に高校生になることは難しい。出席も内申も深く関わってくるだろう。僕にとっては過酷な現実が目の前にあった。
先生からは他校の受験を勧められた。
「今と違う環境に出て、新しい自分を探すのも一つの手だ」
と言われた。
二年生の時には頑なに今後について言及しなかった先生のそのセリフは、この先の人生が僕の決断次第で大きく変わるのだと突き詰めた。
あんなに月日とお金をつぎこんで中学受験したにも関わらず、他校に通うことになるかもしれないなんて、僕は本当に愚かだと思う。でも、いざ受験をしましょうと言われても、僕には将来の夢も目的もなく、好きなことも趣味も曖昧で中途半端だったので、どこの高校を受ければいいのか皆目見当が付かなかった。
どうして人生はこんなにも長いのだろう。どうしてそんな長い人生の選択を僕のような弱っちい子供が決めなくてはならないのだろう。
僕は先生から渡された高校の資料を鞄に詰め込んで学校を後にした。
父さんと母さんに、この紙の塊を渡す勇気が僕には無かった。全てを放り出して逃げ出してしまいたい。あの日木本さんがしたように誰に居場所を告げることなく、ひとりでに消えてしまいたい。
僕ひとりいなくなっても世界は回り続ける。
父さんと母さんは悲しむかもしれないけれど、でもいなくなった木本さんの代わりに他のバイトの人が駆けつけて店を回すように、世の中もまた、回り続けるのだ。
僕は鞄から渡された資料を手に取って、強風で煽られ吹雪く桜の花びらの中に投げやった。ピンクの花弁と白いプリントたちが風の中、渦をなして飛んでいった。
逃げ続けよう。僕の人生はこれからもこれまでも逃げてばかりなのだから。
僕の世界を変えてしまうものなんて何もない。何も僕の世界を変えることはできない。
僕は財布からくたびれたメモ用紙を取り出して、春風と共にそれも吹き飛ばした。鞄の中の空の弁当箱のように僕は軽やかに歩いた。
この先の未来なんて見ている暇があるのなら、今この景色を見ていよう。雪のように零れ落ちる桜の花びらに僕は溺れる。木々の枝からは青々とした若葉が芽吹いていた。
桜が散っていく。紙コップを持っていたらきっと花びらで中身が溢れ出てしまうだろう。そんなことを思いながら、日が暮れるまでずっと、僕は散りゆく桜を眺めていた。
遥か彼方であの人も同じ景色を見ていたらいいなと思いながら。


小説のコメントコメント
この作品の著作権は、作者である 椎橋もえぎ さんに帰属します。無断転載等を禁じます。

学生の頃、学校に行く意味がわかりませんでした。
大人になって、私なりの、学校へ行く理由を見つけたので
それについて書いたつもりです。

2018/10/21 13:46 椎橋もえぎ



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