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『三万円で売った愛』

滅子著



気付いた時には、私は適当にスカートの中から足を放り出して、ゴミ捨て場の裏の空き地でへたり込んでいた。気持ち悪く湿った股に指を入れると、スペルマがついてこない。少なくとも彼はゴムをしたようだ。
濡れたコンクリートのせいで、私の白く豊満な太ももは砂だらけ、凸凹の跡だらけだ。掴まれすぎて腹のあたりに紫色の痣がある。胸もキスマークで鬱血している。
住宅街の建物は低く、東側をみれば朝焼けが雲をピンクと紫に染めていた。スマホは4:56。不在着信は、松風辰明一件、15分前。もうここで1時間近くも半裸で横たわっていたようだ。やはり、周囲にコンドームなどは落ちていない。
とにかく比較的治安の悪い住宅街にこのままいるのはまずいから、すけているブラウスを、雨に濡れたロングヘアで隠しながら地下鉄の始発を待つことにしよう。私はパンプスの泥を落として立った。まだ出ていない春の太陽のかげは、弱々しく家々を照らしていた。



地下鉄のホームはもちろん全く人がいなかった。駅員は濡れガラスのような私の髪と、泥まみれのストッキングを怪訝そうに見ていた。席に座るのはよしておこう。
端的に言って、私はついさっき強姦された。しかも、昔いい感じになったことがあったクラスメイトにだ。
私の性への考え方はずいぶんただれている(後々話すが)が、まさか彼があんなことを。悲しみというよりは、びっくりした。ほとんど濡れないまま入れられたので、処女ではないとはいえ、それなりに痛かった。コンクリートの塀に私を押し付けて、無理矢理にキスをしながら腰を振っていた彼。街灯の逆光で顔は見えなかった。私はどんな顔をしていただろうか、思い出せない。
最初は抵抗したし、わめいたし、思わず辰明さんに電話をかけてしまった。けれど、彼が私を呼んで鼻をすする音や、私の尻に当たる彼の隠毛の湿り加減やちくちくした感じ、ぬるりと舌を伝わってきた熱、そういうものに絆された。きわめつけには、私は辰明さんを呼び出しているスマホの画面を突きつけたのに、彼は私の頭を撫でてぎゅっと苦しいくらいに抱きしめた。私は行き場を失ったスマホを地面に置いて、ああもうこれ合意でいいやと半ばヤケクソになりながら、ある意味では聖母のような慈しみで私は抱かれていた。
地下鉄がやってきた。中に人はほとんどいない。一人、老人が眠っているだけだった。地方の地下鉄でよかったとさえ思った。地下鉄だというのに地上に出るこの列車は、ビル群を突っ切り駆け抜ける太陽の光が差し込んでいて眩しくて暖かい。私はつり革につかまった。家に帰る気はさらさらなかった。



私をレイプした彼の名前は義智礼仁という。彼は高校時代、私と同じ理科部に所属していた。私が副部長で、彼は文系だったが部長だった。高校一年生の時から、私は彼を好きだったような気がする。ニヒルな笑い方や、ちょっと伏せ気味の目からちらりと横を盗み見る癖、一緒にラーメンを食べに行く時に私が嫌いなメンマをよこすと卵をぷちと半分に割ってくれるところとか、そういうものをずっといいなあと思っていた。会いたくて会いたくて震えるとかそういう西野カナではなく、友達と恋人を突き詰めてちょうど落ち着く、数3でいう平均値の定理みたいな相手だった。彼が私のことをどう思っていたかは定かではないが、彼と私の共通の友人の仙石孟が「礼仁は姫子のこと好きだと俺は思うよ」と言っていた。
高校二年生になって、私はとある後輩の一人に告白をされ付き合うことにした。ちょうどその時に、理科部にはおかしな電流が走ったらしかったことに、私は気づかなかった。部内全員が、私は礼仁と付き合っていると思っていたらしかった。しかし、その勘違いもあっという間に礼仁に正された。その後輩の男の子は、情熱的でまっすぐで、とても可愛らしかったが、あっという間に冷めた。やはり所詮自分から好きになった相手ではなかったということだ。
その告白を受け、いいよ付き合おうかと言った、確か一週間くらいあとのことだった。夏の夜はまだ蒸し暑く、the north faceのリュックサックと透けるレースのトップスの間は汗に湿っていた。自動車の排気ガスさえむわっと暑かった。そんな中塾から帰ろうと地下鉄に歩いていると、後ろに礼仁がいた。
「姫子。帰り?」
「うん。」
「飯食おうぜ。」
「本当?いこいこ」
私は、のんきにも、よかった、後輩と付き合っても礼仁との関係は続くんだ、友達でいられるんだ、よかった。と思った。
私と礼二はその時はラーメンではなく中華を食べに行った。私は広東焼きそばを、彼は回鍋肉を頼んで、大盛りを半分ずつ分け合った。もともと大食らいの私たちは、やはりぽっちゃり、否、ギリギリBMIは健常くらいの体つきだった。それぞれ、私はきくらげ、彼はメンマを多めに食べた。
お腹がいっぱいで、私は幸せに帰路につこうとしていた。アーケードの照明の感じや、道行く頭の悪そうな高校生や、手をつなぐカップル、サラリーマンの群れなども、ますます私に安っぽく庶民的な幸せを増幅させた。蒸し暑い紺色の空も、濃厚なくらいだった。多分、そうなった私を彼は狙った。狙ったというよりは、強く惹かれたのだ。そして、その場でずっと忘れていた楽しみにしていたことを思い出したのだろう。いつか手に入れよういつか手に入れようと思いながら横取りされたことを、心中ふつふつと鍋が煮えるみたいに、穏やかにムカついていたのだろう。それに、食欲を満たされてとろんとしている、汗ばんだご機嫌な私は、相当に可愛かっただろうなと思う。もちろん私はその時、自分が可愛いことも礼仁の熱にも気づいていたし別れ難かった。今、今晩だけでもいいから、強く強く繋がれたがっている礼仁を無下にするほど冷たくはないし、貞操もなかった。
「こっち、近道なんだよ」
彼は何への近道かはもちろん言わなかった。そこは歓楽街に近い気味の悪い裏通りだった。私は少し怯んで、思わず歩幅を小さくした。すると、彼は無表情で私の手を包むみたいに優しく握った。
「?」
少し驚き気味に私が彼の顔を見ると、すごく、すごく優しそうな顔をしていた。遊園地で遊ぶ娘を見守る父親みたいな顔だった。けれど、もっともっともっとっていう熱が目から滲み出ていたのを私は見逃さなかった。だからあえて微笑んできゅっと握り返した。彼のその時の顔は、忘れられなかった。まるで縮毛強制した髪が逆立つみたいだった。コンマ1秒、私は彼に抱きすくめられていた。分厚い胸板、男にしては柔らかな二の腕。首元に顔を埋めて、ああ礼仁の汗の匂いだ、礼二はここにいるって、腕をだらんとたらしてクラクラしながら貪った。彼は私をぎゅうぎゅう、ちぎれそうなくらい抱きしめた。
「どうしてくれるんだ、本当に好きになっちまったじゃねえかよ!」
ああ、ごめんね、ごめんね、ごめんね。あなたがしたいことはわかる。分かっている。足の間にある、この湿った穴に触れたいんでしょう。抱きしめて、キスして、入れて、果てて、その一連の流れの私を見たいのでしょう。私の腰に回った腕が、彼の胸板に当たる乳房が潰れているのが、その証拠でしょう。でもね、それは、今だけ、今だけのもの。だからこそ、いいのよ、いいよ。
「姫子。」
彼は震えていて、泣き崩れそうなほどだった。私はやはり、この時も慈悲深く、彼の首に腕を回して頭を撫でた。
「大丈夫だよ、大丈夫。いいよ、礼仁。」
礼仁はようやく、離れ難そうに私をゆっくり解放した。肌が互いに吸い付きそうなほどゆっくりだった。彼はキリッとした眼で見つめて言った。
「俺の知ってる限りじゃ、お前は貞操観念ガバガバだ。」
「ふふ、そうね。でも、そういう安請け合いじゃなくて、今は本当に礼仁しか見えないのよ。」
礼仁は性急に私の手を取って、ラブホテルまで歩いた。私は少し駆け足で、厚底のサンダルでついていく。
「俺も姫子しか見えない。」
そう言った彼の首筋の汗を、何滴でも舐めたいと思った。





地下鉄を降り、私はとあるマンションに向けて歩いていた。少し髪の先は乾き始めていたが、まだ濡れたパンプスの中は泥でジャリジャリして気持ち悪かった。朝日は少しずつあたたかさを増して、母親のように街を眺めている。朝の5時。ジャージ姿のおばさんがウォーキングしている。コンビニからちょうどトラックが少なくなって、自家用車が増える時間帯だ。
とあるマンションの前について、カードキーを切った。自動ドアが開いて、人工的な明るさに飛び込んだ。エレベーター乗って7階を押す。
礼仁とはその一回セックスした後、これといって何らかの進展は本当に今の今までなかった。後輩の男の子に振られて泣いてた時に慰めてもらったのはまた別の男だったし、あの夏の夜以降、二人でご飯を食べにいくこともなくなった。あっても、大体孟も交えての三人だった。
「松風」と書かれたインターホンを押すと、「はーい。」と間延びした声のあと、寝癖がついてる辰明さんが出てきた。
「あれえ姫ちゃん。ずぶ濡れだね。」
夜通し外で何してたの?失恋でもしたかい?とぬかす。強姦とのたまったら相当びっくりするだろう。
「とりあえずシャワー貸してよ。」
辰明さんはダイニングテーブルに積み重なった難しそうな分厚い本たちをよけて、スペースを作った(ちゃんと元の場所に戻さないあたりが辰明さんだ)。彼の寝室のタンスの上から二番目の段から、下着とルームウェアとアフターピルを取りだした。寝室も相変わらず本まみれである。いつ床が抜けるだろうか。
服を脱いだら、自分が気づかなかっただけで泥や砂で汚れていた。びしょ濡れでスカートは紺だったからあまり目立たなかったのだ。ぐちゃぐちゃの服をドラム式洗濯機に放りこむ。キュッと蛇口をひねってお湯が流れていく。雨も、汗も、涙も、全部流されていく。
松風辰明は、簡単にいうなら今彼だ。かつ、パトロンだ。私は趣味で絵を描いたりときどき服を作ったり部屋をコーディネートして販売やデザインをしてちまちまとお金を稼いでいたのだが、SNSでちょっと話題になり、人気が安定して出てきた。流石に受験期はやめていたが、単純に好きだし、ある程度金にもなるし続けていたのだ。辰明さんの出資は、初期ほどではないが未だに続いている。私が稼げるようになるにつれ、減らしてもらったのだ。
シャワーを出て服を着ると、彼は梅昆布茶をすすりながらパソコンとにらめっこしていた。
「辰明さん、仕事?」
「そうだよ。」
辰明さんの職業は、よくわからない。元精神科医と聞いていたが、ラノベらしきものを書いていた時もあるし、真面目な日本史か何かの資料がどさっと置いてあることもあるし、アフィリエイトサイトのブログを更新していたこともある。けれど、それなりに金があるのは確かだ。
「あ、そうだ。この間言ってた分のお金今日までなんだけど。」
「なにそれ?」
「辰明さんが分け前ミスって計算して私が多くふりこんだ分よ。」
「忘れてた!まずい、今日中にやるから!」
お金の管理はしっかりしてほしいものである。
私はキッチンからコップを出し、ケトルから白湯を注いでアフターピルを飲んだ。多分、今日1日は動けないだろう。親にはなんて言おうかなあ。お友達の、満月ちゃん家に泊まっていたと言おうかな。
「ねえ、辰明さん」
「んー?なんだい、姫ちゃん」
「私今日レイプされたんだけど。」
瞬間、辰明さんの肩がブルルン!!!と震え、誤作動したファービーみたいに椅子から転げ落ちた。
「大丈夫?」
「え?え?どこで?うそ」
「昨日の夜入試ちょうど終わったから、孟と私と礼二でラーメン食べに行ったあと、塾に行って報告してきたんだよね。今思えば、礼二はもう受かってんだからいく必要無かったんだけどさ。その帰りだよ。」
辰明さんはずり落ちたメガネを直して、机に手をついてゆっくり立ち上がる。老人のようだ。
「犯行時刻は?」
「昨晩から今日の夜中にかけて」
「じゃあ、あの不在着信って」
「……気にするな」
「気にするわ!」
辰明さんはお風呂上がりの私をそっと抱いた。セックスの前の焦るような獰猛さではなく、もちろん礼仁のすがりつくような儚さでもなかった。うーん、これもいいけど、そうじゃないんだよな。ちょっと私の中では面白いなという気持ちも湧いていたから、同情されたいとか優しくされたいとかよりは、ただに話をきいてほしいのだった。
「精神科医としてどうなの?その対応。」
そういうと、彼はちょっと眉を下げて、
「まさかその僕を目当てにここまでやってきたの?恋人の僕じゃなくて?」
「いや、正確には、家には帰りたくないけど風呂には入りたい、でも銭湯は流石にやだ。」
「君は本当に嘘をつかないよね。そして、案外余裕だね。」
「反動形成かもしれないけど、とにかく今は何でかすごく冷静だよ。」
私はするっと彼の腕を抜けてソファにどかっと横になった。彼は浅く腰掛けて、私の頬を撫でた。
「犯人はわかってるの?」
「うん、でも公にするつもりはないよ。」
「え?なんで?」
「相手がかわいそうだからさ。」
「誰だ、レイプされた姫ちゃんに可哀想なんて抜かさせるレイプ魔は。」
「礼仁だよ。」
辰明さんは黙りこくって頭の中を奔走している。礼仁がどんな奴だったか、ちまちまと話す学校や塾の話の記憶を頑張ってチェックしている。
「あの、T大の法学部に受かった文系のやつ。去年一回やったやつ。」
「正月に君のこと振ったやつじゃなく?」
「違う違う。そいつと付き合う前にやった奴。」
辰明さんはああ、と声を漏らす。
「思い出した。あのぽっちゃりした色白の子だよね。」
「会ったことあったっけ?」
「確か姫子ちゃんと歩いてるところを見かけただけだけど。」
暖かくも冷たくもない肌。私が辰明さんの手に擦り寄ると、彼は頭を撫で始めた。
「痛かったよね。ごめんね、あの時電話出られなくて。」
まだ誤解してる。私は正直このことを降って湧いた面白い何かくらいにしかとらえてないのに、私を傷ついたと思ってすごく優しくしてくれている。
「痛くなかったと言うと嘘だよ。あと、私これ結構そんなにショックだとは思ってない。びっくりはしたけど悲しくない。」
辰明さんは「は?」とぽかんと口を開けた。
「礼仁泣いてたし、好きだって私のこと何回も言ってたし、なんかいいかあって。」
「なんかって……」
「納得いかないかもしれないけど、とにかく私の中でこれはもう完結しちゃってるの。絵の表現のネタになりそうとさえ思うくらい。」
「君の商売根性みたいなところ好きだけどさあ。」
辰明さんは戸惑っている。一般常識とかけ離れた私の感想と、彼の覚えた物事たちがうまくフィットしないのだろう。
「まあ、ゆっくり、おいおいね。アフターピルも飲んだし。」
「礼仁に金出させなよ。」
「ウケる〜、そうしよ。」
アフターピル飲んだ後の体のだるさ、苦しさ、気持ち悪さは、つわりに似ているらしい。本当に望んだ妊娠をしていたら、もっとうっとりとソファに沈めたんだろう。けれど、それは今ではない。いつかの未来の話でもない。事象で、今ここにある私が決して体験し得ないものでしかない。
「ねえ、本当に気にしてないんだったら、事細かに聞いてもいいかい?」
「小説にはしないでね。」
私は、彼に昨晩のことをできる限り詳細に教えた。目隠しでガムテープを貼られてまつ毛が抜けて痛かったこと、そのくせ口には何も噛ませなかったから助けを呼ばれたらどうするんだこいつとおもったこと、泣きながら後ろから腰を振られてたから顔が見てみたかったこと。礼仁の中途半端のままの優しさと獰猛さ、拙さと狡猾が愛しかったこと。
一連の流れを聞いて、辰明さんは言った。
「ふうん、なんかその計画性のなさでT大法学部は笑えるな。六法全書の強姦罪のところに蛍光ペン引いてやろうぜ。」
「不謹慎すぎ。てか、普段は優柔不断なくらい用意周到なやつなのよ。だからいっそ衝動的なものだったっていうセンもある。」
「あれ、そうなの。」
ふむ、と彼は少し考え込んだ。
「どんぐらい用意周到?」
「定期テストだけ学年一桁になっちゃうくらいよ。」
「そうか、そんなにか。」
辰明さんは唇の皮をむきながら答えた。くせなのだ。血が出るからやめろと言っているのに治らない。
「じゃあ、相当礼仁くんは姫ちゃんのこと好きだったんだな。」
私はびっくりした。
「は?話飛びすぎでしょ。」
「だってさあ、そんな用意周到な礼二くんがどうしてそんなガムテしかないようなおざなりな準備でレイプしたんだい?」
「……衝動?」
君は案外頭が悪いな、と言われたのでカチンときた。辰明さんが頭おかしいくらい頭良すぎるだけなのだ。
「ガムテを用意してるならある程度の計画性はあるはずだよ。だったら、彼の計算高さを邪魔するほどのファクターが何かあったに違いないよ。それが何かって考えたら、性欲もあるかもしれないけど、姫ちゃんが好きだったことじゃないかな。」
「へ、へえ。」
私は梅昆布茶をのんだ。
「照れてんの?」
「うん。」
「うわあ、気持ち悪い。」
スマホが鳴り出した。ママからの電話だろうか。
「辰明さん、取って」
呆れ顔で取って、辰明さんは私のスマートフォンの画面を見た。あからさまに顔をしかめた。
「何?早く」
「ご本人様からだよ。どうする?」
画面には義智礼仁の文字。私はスピーカーを入れて応答した。
「もしもし?」
「そんなあ!間髪入れずに応答するなんて……!」
『姫子?』
「はいはい姫子ちゃんですよ。」
礼仁の声はかるく嗄れている。可哀想に。泣きでもしていたのか、オールでもしていたのか。しかしこれでのうのうと眠っていたらなんて肝っ玉の大きい男だろう。
『今、誰といるの?』
「あんたの好きなラノベの作者さん。」
「なんだその言い方、ストーカーかよ」
辰明さんが横から口を挟んでくる。
『……駅前のスタバ。10時ぴったりね。』
「え〜……奢れよ」
『……バカ!』
電話が切れた。
「彼、相当気が立ってるな。」
「強姦した相手がのうのうと恋人だかなんだかわかんない男といるのは気にくわないかもね。」
「10時なら、まだ着替えるくらいの余裕とかはあるよね。ゆっくりしよう。ところで、僕もいったほうがいいかな。」
「……そうね、刺されたらたまらないから隠れて来てもらうわ」
私は再度彼の寝室に行き、彼の服を物色して比較的女が着てもマシそうな服を見繕い、借りた。
「水虫ないよね?」
「ないよ!」







カフェで、礼仁は今にも世界が終わりそうな顔で、冷めたコーヒーと一緒に、私を待っていた。
「待たせたわね。」
私は期間限定のフラペチーノを置いた。辰明さんは私たちの席の、隣の隣に座ってラップトップなど触っている。画面の白さからみると、おそらくマイクロオフィスでラノベの原稿だろう。礼仁は辰明さんの顔を知らないが礼仁さんは知っているため、15分ほど前から偵察してもらっていたのだ。LINEで時々送られてきたメッセージを見るに、礼仁はずっとスマホもいじらずに冷めていくコーヒーとにらめっこしていたらしい。
「姫子。」
彼は可哀想にも、クマがくっきり入って泣き腫らした目をしていた。色が白いから、鼻が赤くなっているのがわかる。泣いて鼻をかみすぎたのだろうか、それとも今泣いているのだろうか。
「ごめん。」
「うん、まずはそうだね。あと私は何回も言うけど、警察や親や先生に言うつもりはない。安心して。大学には行けるよ。」
「……どうして姫子は、そんなに平然といられるの?」
今まで何度、親に、友人に、そして礼仁に言われて聞き飽きた。もうそれは、価値観とか性格とかの類で、最早議論の余地はないのに。
「ドライだからだよ、めちゃくちゃ。知ってるでしょ。」
「知ってたけど。」
「だから好きになったくせに。」
「よくいけしゃあしゃあとそんなこと。」
礼仁は心底呆れたと大げさに肩をすくめた。ちらっと辰明さんを見ると、さっきまでつけてたイアホンを外している。
「まあ、とにかく。質問はお互いにいっぱいあるから、それを交互に一つ一つ解消していこう。」
私は拍子抜けした。よくある昼ドラ修羅場を想像していたので、礼仁がこんなに理屈っぽく話題を切り出すとは微塵も思っていなかった。何はともあれ話が簡単に片付くならば万々歳である。
「考えやすいようにメモ書きとペンも持ってきたんだ。」
「あなた本当に気持ち悪いくらい用意周到よね。」
私は礼仁がバックパックから出したコピー用紙とペンを受け取り、⓵と書いた。
「先攻どうする?」
彼は黙って握りこぶしを差し出した。辰明さんがぴくっとこちらに視線を向けた。
「……コブシで決めるってか?」
「バカ、じゃんけんだよ。血の気が多いな姫子は。」
「はいはい。じゃんけん、ぽん」
子供っぽい掛け声で、チョキを差し出したら勝った。
「じゃあ、まず、犯行は計画的だったのか。」
「そうだよ。計画倒れしたけどね。」
「何よそれ。」
「本当は、べろべろに酔わせるかなんかでホテルか家に連れてくとかしたかったんだけど、孟がいたし。やめよっかやっぱって思ったし、でもお腹いっぱいな姫子はかわいいし、孟は帰る方向違うし、さ。」
「お前怖いよ!」
「そりゃレイプ魔だからね。」
礼仁もまた随分いけしゃあしゃあと言うものである。
「次僕ね。なんでわざわざ「口塞がないとダメなんじゃない?」とか、「目隠しにガムテはやめてよ、睫毛抜けちゃう」とか言ったの?ストックホルム症候群?」
「あながちストックホルムは否定できないけど、単純に貴方が本当に可哀想だったのよ。」
彼は眉間にシワを寄せた。
「強姦されといて言うセリフじゃないな。」
「最初は、こいつ欲のはけ口にするなら場所選べよと思ったのよ。でも泣いてるし好きだって言われたし、可哀想だなあって思ってきちゃって。合意でいいかあって思ってさ。ちょっと、何泣いてんのよあんた。」
「僕は絶句だよ。」
「なんでさ。」
「だって僕はすっごく姫子のこと好きなんだよ。それを欲のはけ口なんて。」
あ、やっぱりそうなんだ。礼二の涙が彼の綺麗な肌に映えている。
「去年の夏どころか一年生の頃から姫子のこと好きで好きでしょうがないのに、姫子は大して好きでもなさそうな奴と付き合っちゃうし、振られたら他の男のところ行ったし、それが終わったらスッキリしたって顔で受験勉強始めた上にパトロンといい雰囲気になり始めてたんだもん。」
「いや、礼二なにもしてなくない?待つことしかしてないのに賢太とか辰明さんとかに嫉妬してるのなら大笑いよ。」
思わず思ったことが口からそのままでてしまった。礼仁がギョッとした目でこちらを見ている。
「それにレイプしといて好かれたいなんてあまりに頭が悪すぎない?」
「だから、これで終わりにしようって思ったんだよ。」
「なのに今朝電話ちゃっかりかけてるわけ?」
礼仁の目を見ると、また涙で潤み始めていた。可哀想だけどここでやめたらただの社会不適合者である。
「そもそも終わりにしたいんだったら一人で終わりにしなさいよ。百歩譲って事前にセックスさせてくれとか言われてた方がマシだよ。最悪だよ。」
「はい、それに関してはすごく反省してます。ごめんなさい。」
妙に素直だ。なんだ、終わりにしたかったのか。
「次。私と一体これからどうなりたいの?」
礼仁は少し黙った。おそらく、自分でもわからないのだろう。
「……恋人になりたいとは、思ってない。」
「そのこころは?」
「僕、姫子に好かれたいと思って、できる限り努力はした。服とか気使い始めたし、できる限り一緒にいようとした。でも無駄だった。現に、姫子が今言われるまで気づかなかっただろ?」
「うーん、現に私たち仲良くなれてるから全部無駄ってわけではないけれど、恋に落ちるほどではなかったわ。」
「だからもういいレイプして終わりにしようって言ったじゃん。」
「ヤケクソでレイプすんなよ」
「はい。」
「せめて好きですくらい言おうな」
「だって僕たちもうセックスしちゃってるし、彼氏っぽい何かはいるし。あ、次の質問思いついた。」
「何?」
「松風辰明とは誰なのか。恋人なのか。」
「パトロン。愛はあるけれど恋人というほど強い縛りはない。職業不明、三十路、金はある。」
「セックスしたことは?」
「あるよ。それに、これからもするよ。」
できる限り感情を出さないように淡々と話すと、彼は神妙な面持ちでコピー用紙に書き留めて言った。
「面白くないな。実に面白くない。」
「だけど、姫子がそいつに惚れてるらしいのは事実だしな。」
「惚れたかあ。」
隣の辰明さんをチラ見すると、ニヤニヤしながらこっちを見てきた。
恋してるとか愛してるとかよりは、惚れた!の方が確かにしっくりきているかもしれない。人間や交友は、わりと他人で代替できるところがある。つまり、上位互換や下位互換は存在する。しかし、そういった上位や下位を飛び抜けてしまった存在も時折あって、それがたまたま辰明さんだったのだ。もしくは、あまりに辰明さんが上位すぎるという解釈も可能だが。
「惚れたかもね。」
「僕が見てる限りそう見える。」
「じゃあ次私ね。どこで辰明さんのこと知ったの?」
「孟情報。」
「孟は本当に口軽いなあ。」
「少なくとも今の彼氏らしきポジションの人間は間違いなくいるし、それはどうも高校生や大学生ではないらしい、って。」
「孟はどうしてそんなことまで推察できたのかしら?」
「さあ?でもあいつ、探偵になればってくらい観察眼鋭いからな。」
「私達が鈍いのかも。」
「いや、それは姫子だけだよ。だって、あの向こう側の席に座ってるのが辰明さんだろ?」
ピシッ、と音がしたような気がした。
礼二はにんまりとゲスい笑みを浮かべ、「僕も大概カンはいい方だよ。」と言った。辰明さんは、まだ気づいてないらしく、せわしなくキーボードを叩いている。
「……いつから?」
「姫子もあの人もお互いのこと見過ぎ。あと僕のこともね。でも、わざわざ会話に参加してもらう気は無いから。」
「そう、助かるわ。」
「それにしても妬くけど。全くこんなところまでついてきて……。」
「礼仁が突然隠し持っていた包丁で私を刺すかもしれないでしょ」
「ねーわ」
礼仁は冷め切ったコーヒーを一口飲んだ。
「また同じことを聞くけど、これからどうしようかしら?礼仁は希望はないの?」
礼仁は少し目をそらしてきっぱりといった。
「僕は姫子のことはまだ好きだ。大好きだ。だけど、僕が望んでいたような交際は姫子相手じゃおそらくできないだろうね。」
「それをわかってくれるから礼仁のこと好きよ。」
「よせやい、そんなこと。どうせ噛み合ってないんだから、その好きは。」
ふふ、と笑うと、礼仁は柔らかくたおやかに笑った。ああ、彼のこの笑顔は、とても好きだ。
「僕は姫子とは、これからも是非いい友達でいてもらえたらすごく嬉しいって今思ってるんだ。一度は、縁を切りたいくらいだったのに。ともかく、それほどに好きだったんだ。でもそれはもう過去の話で、今ではない。この先また姫子のことを大好きになるかもしれないから、断定的なことは言えないけれど、友達でいたいんだ。」
どうして、礼仁はこんなタイミングでこんなに素敵なことを言ってくれるのだろう。未来への打算も過去への後悔もなく、シャープでスッキリと今だけを伝えてくれる清々しさ。いっそ付き合いたいと思った。
「だけど、一つだけお願いがある。」
「なあに?」
私は美しいものに触れた気分で、ご機嫌にフラペチーノを吸った。
「辰明さんとは、もう別れてくれ。」







礼仁が、じゃあバイトの面接があるからと席を後にして5分後くらいに辰明さんが話しかけてきた。
「姫子ちゃん、このあとはどうする?お家に帰るかい?」
「帰るわよ。流石にパパとママが心配するわ。」
自動ドアを抜けてアーケードを歩いている。風が強くて、青空を雲が猛スピードで駆け抜けていた。
「ラノベ進みすぎて全然途中から話聞いてなかったんだけど。どうだった?」
「友達でいたいから、いいよって言ったよ。」
「そうかあ、姫子ちゃんは優しいなあ。」
よしよしと頭を撫でられる。さっきの礼仁の言葉を思い出した。礼仁、残念ね、私まだ大丈夫だ、まだ頭を撫でられて嬉しいと思っている。まだ気持ちがいい。頭に残存する温もりとは裏腹に、胸が針金で締め付けられた。




「ただいま。」
ちょっと遅くなるわとLINEはしてあったけど、まさかオールしてくるだなんて思っていなかったらしい。ママとパパはすごく動揺していた。カラオケで三人でオールしたら遅くなってしまったと嘘をついた。
風呂に入りなさいと言われ、シャワーを浴びた。本日2回目だが、つじつま合わせのためなら仕方ない。体を滑り落ちる湯は先ほどとは違い、暖かさが変にしみて感じられた。
私はベッドに横になり、礼仁の言葉を繰り返していた。
「辰明さんの存在は、僕が個人的に気に入らないということを除いても、姫子にとって良くないと思ってる。」
「ゲホッ、何よ、しょっぱなから決めつけ?」
私はすっごくムカついたのを覚えてる。飲んでたフラペチーノでむせた。
「お前、なんで大学のランク下げた?模試の成績が停滞し始めた?そんなのわかってるだろ。」
礼仁の言うことは、すごく図星だった。そして、私のずっと検討し続けていたことでもあった。知っていた。分かっていた。何回も縁を切ろうとしては結び直したのだ。赤い糸があったなら、ちょうちょ結びが数えきれないくらいにあったろう。
「俺は正直、お前が変わってしまったように見えた。もちろん気にくわないのも気にくわない。けれど、姫子が成長していく劣化していく、そういう変化なら受け止めるよ。流石に百貫デブとかになったら、好きでい続けるのは無理だろうけど。だけど、姫子が『このままじゃダメだ』って思いながら、辰明さんとの付き合いを続けるのは、よくないと俺は思うんだ。」
「……どうして、私が辰明さんとどこか終わりにしたいのが分かったの?」
「いや、確信ってほどじゃないけど薄々ね。だから、今言ってみた。そしたら、図星だったみたいだね。」
「最悪。礼仁に言われるなんて。」
「だけどお前、他人に言われないと本当の本当に実行にうつす気なかったろ?」
私がテーブルに乗せていた手に、包むように自身の手を重ねて礼仁は言った。
「烏滸がましい言い方だが、俺はお前の手助けをしているんだ。まあ、別の言葉では、つけいっているとも言うんだけれど。姫子が、本当の本当に辰明さんのことを愛する前に、その芽をつんでおきたいんだ。」
「もう愛してるって言ったらどうするよ?」
「……お前まさか、」
「わからない。わからないわよ。私が持つこの愛が、あなたの言う本当の愛なのかどうかは。そして、芽を摘まれる場合に失う喜びと、成長しきったときに伐採される場合に受ける苦しみの、どっちが私により良い選択なのかも。」
「バカ。」
「だけれど、礼仁が私を強姦してまで得た結論がそれなら、私、考えたいと思うわ。」
あの時の礼仁は、すごく格好良かった。堂々して、真剣な眼差しで私のことを考えてくれた。申し訳ない。嬉しい。気持ちがいい。それだけではない、わざわざ「忠告する他人」という、80%嫌われるポジションを選んだのだから、その勇気や思い切りも評価したい。
私を強姦してお家に帰って、頭がねじ切れそうなくらいに私のことを考えてくれたのだろうか、それとも、ずっと前から考えてたのだろうか。そう思うと、涙が出てきた。
とにかく、私はどうすればいいんだろう。今は、辰明さんとまた会いたい気はしない。
ベッドに横になっていたからか、眠くなってきた。そういえば、今日はいろいろなことが起こりすぎて目が冴えていたが、オールしたことになっているのだ。だったら、本能には争わないほうがいい。私は部屋着のまま眠りについた。





目が覚めると、朝の四時だった。たしか家に着いたのが午後2時。つまり、私は14時間も寝ていたらしい。おかげで頭はとてもシャッキリと冴えている。
スマートフォンを開くと、メルカリで漫画が売れていた。それなら、発送のついでにコンビニに行こう。私は黒金のヤンキーみたいなジャージに着替えた。




「あっ。」
「あら。」
コンビニを出ようとすると、自転車に乗った、背がひょろりと高い、手足の長い元同級生にあった。
「賢太じゃない。」
「姫子か。」
「何買いにきたの?」
「お菓子買いにきた。お前は?」
「メルカリの発送。」
「本当に抜け目ないなあ、お前は。」
普久原賢太。私の初恋の人だった。短く、熱く、自分で強制終了した恋心だった。あの時のことは、今思い出しても涙が出そうになる。
「お前、泣いてたな?」
賢太が、人より大きな手で私の目元を撫でる。この壊れ物みたいに触る長い指が、とても愛おしかったのだ。思い出して目が潤んだ。
「また泣くのかよ。さてはまた失恋だな。」
「図星よ。」
「泣くならコンビニ前はやめろ。家くるか?」
「いく。」
「今日ばあちゃんしかいないから、泣いても大丈夫だよ。耳遠いし。」



「おじゃまします。」
「あんれまあ、姫子ちゃん。」
久しぶりにあった賢太のおばあちゃんは腰がすこしまがっていたが、すこぶる元気そうだ。来年100とは思えない。
「お久しぶりです、おばあさん。」
「おばあさんって言い方はよしとくれって何回も言っとるじゃろ。」
「はい、与志恵さん。」
畳の縁を踏まないように気をつけ、古き良き文化住宅風の家に上がる。
「賢太、醤油は?」
「あっやべ。」
「なーに、彼女にあったからって買うてくるの忘れたんか。」
賢太も私も、もう正しはしない。与志恵さんの記憶は、賢太と私が付き合っていた時でほとんど止まっている。訂正するのも、話が込み入ってて、しかも秘密も多くて、到底言えない。
「姫子ちゃん、柿食べるかい」
「ありがとうございます、大好きです干し柿」
「ばあちゃん、あとで俺の部屋に持ってきといて。」
「おお、お楽しみかい?」
「バカ!姫子が大学受験終わったから話聞くだけだよ。」
与志恵さんはヒッヒッヒと笑っている。そういう賢太も、どこか優しい陰りを残している。かつて仲間に入れて欲しかった暖かさがそこにはまだ、間違いなく、そのままあった。だけれどもう昔のような執心はなく、美しいものに触れたという思いだけ。
「避妊はするんじゃぞ〜」
「ばあちゃんもうあっち行って!」
襖で仕切られた六畳一間の部屋に入る。隙間からWii Uの延長コードが伸びている。O教育大学の赤本が入った本棚、勉強道具、身長の割に高さの低い机の上には消しゴムのカス。
「相変わらずで、ホッとしたわ。」
「不変のものって、やっぱり惹かれてしまうよな。」
ああ、ここ。こういうところ。さりげなく真理をついてしまうところ。他人に嫌われやすいこの性質を自分でよくわかっていて、そのコントロールに長けていた。そういうところ、たまらなく好き、だった。
頑なでないのに芯はあって、しなやかで優しい。
「ところで、何があったんだ。」
私は、さっき辰明さんにしたような説明に、礼仁との会話の全てを嘘偽りなく話した。その間、賢太はメモを取ったりなどして、私の話には状況確認の質問などを除き口を挟むことはは一度もなかった。本当によくできた人間だと思う。
「私もどこかでは辰明さんと別れなくちゃいけない、いや別れたいって思ってるけど、その理由もなく、目的も特にないの。強いて言えば礼仁に言われたから、とか、礼仁のいう通りだから、とかになるのよ。」
座敷に寝っ転がると、畳が冷たく気持ちよかった。賢太は足をストーブに向けていた。
「ふんふん、なるほどね。でも成績が下がってるのは本当だと思うかい?」
「……分からないわ。辰明さんと出会ってなかったら、私は東大を受けてたかもしれないし、自殺してたかもしれないし、そんなのわからないわ。」
「それもそうだね。じゃあ、今の時点から振り返って、彼と出会ったことを後悔してるかい?」
「そんなことない!少なくとも新しい視点は手に入ったわ。」
私はきっぱりといった。
「それなら、これから彼と付き合って、何かメリットは得られるかな。不確定要素はカウントしないで、確実に得られるメリットって何かな。」
私は言葉に詰まった。すぐに思い浮かんだのは、セックスの相手。次は、寝床の確保。次は、パトロンとしての役割。
「……金。」
「金かー、でもその使い道は生活費じゃないだろ?」
「うん、服を作ったりして売る資金。」
「お前相当売れてるんだから金ももういいんじゃないか?それに、金はいくらあっても、足りないと思ってしまうだろ。」
賢太の言う通りだったが、私はちらっと気になった。
「ねえ、あなた誘導尋問してない?私を辰明さんと別れたくなるように。」
「ああ、してるさ。だって、レイプ魔にそんなこと言われて、それが図星じゃなかったら、姫子はわざわざ俺に相談なんかしない」
賢太の自信過剰とも言えるくらいの態度にはイラっときたが、その通りなので黙っておいた。
「言いづらいけれど、姫子は最後のひと押しに他人の力を借りすぎだよ。一人で決めるってことができないよな。」
「ちょ、突然ディスるのはやめてよ。」
「だけれと、姫子はずっと決められて生きてきたんだもんな。仕方ないんだよ。俺は知ってる」
「……。」
「……話に戻ろう。金はなんとかなる。あとは、姫子の気持ちはどうなんだ?」
「どういうこと?」
「いや、今すぐ決めろってんじゃないよ。辰明さんとの交流で、感情的財産の損得はどうだ?」
「えらく英語みたいな文章出してきたわね。」
「受験勉強の癖が抜けてないんだ。んで、喜び?苦しみ?悩み?激情?優越感?」
賢太の方を向くと、ちょうど私のことを見つめていた。その目が空洞で、何も映ってないのにこの世の全てを知ったようながらんどうで、ああ、こいつは本当に頭がいいなと思った。また、涙が溢れていた。
「劣等感よ。私じゃ全然この人に足りないっていう劣等感。」
「そうか、話聞いてる限り辰明さんはすげえ人らしいもんなあ。傍目からはただのクズだけど、悟ったり秀でたりする人間ってそうなりがちだよな。」
私はしゃっくりあげながら、賢太の胸に顔を埋めた。賢太はお母さんみたいに、頭を撫でてくれた。
「今まで積み重ねた時間を切り落とすのが惜しいのよ。」
「全て無駄になるわけじゃないよ。いくら姫子が無駄だったって嘆いても、その記憶は確かに存在するんだよ。それは姫子を形成する素材になるさ。確かに、それなりに時間を重ねた人と別れるのはとても辛いし、がらんどうになったような感じがする。だけど、そんなことはないんだよ。いろんなものを与えたり、奪ったり、もらったり、盗まれたりして、最終的にはプラマイゼロになるんだよ。」
賢太の腕の温かさの中で、私は泣きに泣いた。今受けている優しさは、賢太からだけのものではない。今、泣いているのを聞こえないふりしてくれている与志恵さんは言うまでもないが、彼をこのように育てた賢太の両親たちや、私を含めた友達など、環境というものの、奇跡に近い極めて美しい優しい部分。



「具体的な行動するとなると、まずはお金のことだよな。投資全額の記録は取ってるか?」
「154万8904円。小数点以下切り捨て110%還元。」
賢太は電卓を叩く。
「1703794。返済済みか?」
「うん。そして、辰明さんの計算ミスで私間違えて3万くらい大目に支払っちゃったくらいよ。まあ、それは昨日返すって言ってた。」
賢太は眉をしかめた。
「それは具体的にいつ戻ってくるんだ?」
「昨日、今日中に振り込むーって言ってたわ。」
「ああ、そう。」
賢太は電卓をしまった。
「じゃあ、もう金は問題にはならない。あとは、お前の決心だけだな。」
プレッシャーをかけるように賢太はこちらを見た。胃の裏側が叩かれるように痛む。
「まあ、姫子なら、たとえ少しの後悔をしてもすぐ新しくなれるって俺は信じてる。」
「ふふ、ありがとう。賢太のそう言うところ好きよ。」





銀行の帰り、私は大股で歩いていた。通帳の最後の欄は、「メルカリ 売上金振込 22589円」のままだったのである。
最早三万ごときに執着はしていないが、金にルーズなのは辰明さんだろうがなんだろうが許せない。人間誰しも間違いというものはあるが、その間違いを無くそう無くそうと努力しない、緊張感のない人間は嫌いだ。しかも、お金という、現実や生活に強く結びついたものに対しては、ますます人間性を疑う。
私は歩道を歩きながら、ほんとはやっちゃいけないと思いつつスマホをいじって電話をかけた。
「もしもし?」
「もしもし、辰明さん?」
「ああ、姫子ちゃん、どうした?」
私は立ち止まった。
「さ、ん、ま、ん、え、ん!」
「あっ。」
辰明さんがこの場にいたら殴りかかりたかった。礼仁や賢太に焚きつけられたからかもしれないが、今の私はすごくそうしたくなってしまったのである。
「悪い悪い、でも今お金ないんだ。」
「は!?バカなの!?とうとう使い切ったの?!」
「違う違う、引き出し限度額がさ。」
「……使い切ったんじゃん?」
「いや、違うよ。蓮美甘音っていうドローイングパフォーマーのことは言ったよな?」
蓮美甘音は、私とは毛色が違うが同じ作家である。何回か即売会でも顔を合わせた。私が、服飾雑貨、服そのものを製作し販売しているなら、彼女は、絵、一本だ。美しい、美しい女の子をひたすらに書き上げる。彼女の描く女の子は、いたずらな笑みで、ビビットな色遣いで、幼いのに色気がある。彼女いわく、自身が付き合いたい女の子を具現化しているらしい(おかげさまでレズ疑惑さえある)。彼女のパフォーマンスを一度だけ生で見たことがある。大きなキャンバスに、アクリル絵の具だけで、脳内を写し取るように、過集中で書いていた。そういえばあのとき、隣に辰明さんがいたんだった。
「……ああ、前投資しようとしてるって言ってた。」
「そう、それで交渉が成立したんだよ。」
仕事の話なら、仕方ない。新しい取引先が生まれたなら、祝うべきだろう。連絡の一言もないのは、腹が立って仕方ないが。
「ああ、あとね。」
「何?」
「甘音さん、めっちゃ美人だから一発やった。そしたら付き合いたいって言われちゃってさー、参ったわ。」
「……はあ?」
私はびっくり仰天した。甘音さんは男もいけるんだ、ということにではなく、この金というシビアな話をしているとき、その上一応愛と金が介在する関係性である私というポジションの人物に対して、突然他の女との色恋沙汰の話をふっかける辰明さんのクズさに、思わず何もない歩道で転びそうになった。
転ぶ代わりにひねった足首をさすって、返事した。
「……え、それで何?」
「いやー、付き合うのはめんどくさいんだよ。縛りとかはいらないじゃん。だけどさー、甘音さん美人だし可愛かったんだよねー。」
なんだ、この男。
私はほんのほんのついさっきまで抱いていた彼への愛とか優しさとか悩みとかそういうものすべてかなぐり捨てたくなった。賢太の腕の中で泣いていたのもバカらしく思えるほどだった。
「や、いくらなんでも辰明さん、そんな話を同業者の私にするなんて、貞操観念……ガバガバすぎない?」
私は必死で自我と声色を保っていた。通行人からみたら鬼の形相だったと思う。
「いや、姫子ちゃんには負けるでしょ。」
その言葉を聞いた瞬間、頭が真っ白になるくらいブチ切れた。切れすぎて虚無になった。ああ、私って怒ると冷静になるタイプなんだなあ……と脳みその端っこで思った。
「ああ……そう、じゃあ、三万はいつでもいいよ。」
むしろ返さなくてもいい。
「助かるわー!」
「あと私、今ちょっと忙しいから切るわ」
私は電話を切り、辰明さんをブロックした。今まで積み上げた時間も、金も、記憶も、こんなあっさりした怒りの波に任せてすべて流し去ってしまったと思うと、すごくわくわくした。面白かった。賢太の言う通り、私は生まれ変わるような感じがした。これはパニックの一種なのかもしれない。わからない、分かりはしない。それでいいのだ。
とにかく、礼仁と、デートをしてみよう。私は礼仁に電話をかけた。


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2018/02/22 21:38 滅子



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